「百鬼夜行」という言葉は「ひゃっきやぎょう」と読むのが正しい ようです。平安時代には陰陽道で決められた「百鬼夜行日 (ひゃっきやぎょうにち)」というのが決められていて、 その日は忌み日で夜間の外出は堅く禁じられていたそうです。 正月子の日、二月午の日、三月巳の日、四月戌の日、五月未の日、 六月辰の日などです。もしこの日に夜間外出すると、数多くの鬼が 夜の辻を行進する百鬼夜行に出逢うことがあるからです。
夜間に百鬼夜行に出逢ったという話は「大鏡」の藤原師輔を はじめ、「今昔物語」「江談抄」「宝物集」「宇治拾遺物語」 などにも見ることができて、平安時代から中世にかけては よくある話であったようです。百鬼夜行に出くわした時には、 尊勝陀羅尼(そんしょうだらに)の護符を持っているか 読誦で難を逃れることもあります。
付喪神は器物が長い年を経て魂をもったものといえるでしょう。 付喪神はもともと九十九髪(つくもがみ)と書いたともいわれ、 九十九は百から一を引いたものですから、九十九髪は白髪を 示し、長年の年を経たことを指す言葉です。器物は百年たつと 魂を持つので「煤はらい」という風習があって、新春の前に 古い器物を路地に捨てたそうです。
室町時代の「付喪神絵巻」(崇福寺蔵)によると、捨てられる のに怒った器物たちが、節分の日に自ら妖怪に変化 (へんげ)し、京の船岡山の裏を住処とし、町に出ては 人や牛馬を襲い宴会を開いていました。しかし、最後には 護法童子に諭され仏門に入るというまとめになっています。 また、この器物の妖怪たちの行進が百鬼夜行である という解釈もできるようです。
石燕の「百鬼拾遺」の一部や「百鬼徒然袋」の多くは 付喪神の一種だと思って間違いないでしょう。
夏といえば怪談、というわけで怪談の中には妖怪や幽霊が現れますが、 妖怪と幽霊はずいぶん違います。これに御霊(怨霊)を加えて記します。
もともと古代から平安時代にかけて、京の町に災厄をもたらしたのが 怨霊です。怨霊とは、権力闘争に敗れて刑死、あるいは遠流されその 地で亡くなったものが京の町に祟りをなすもので、洪水、疫病、落雷、 権力者の急死などはその祟りの為と思われました。怨霊とされたのは 井上内親王とその子である他戸親王、早良親王(祟道天皇)、 伊予親王、菅原道真、崇徳上皇などが有名です。これらの怨霊を鎮め るために上御霊神社、下御霊神社、祟道神社、北野天満宮、 白峰神社などに祀られています。
妖怪の方はというと平安時代から江戸時代にかけてでしょうか、時に は人間を襲うものもありますが、概して恨みとかではなくて自然が 生み出した異なるもの、あるいは自然の力を擬人化したようなものが 民話や仏教説話と入り交じって変わりながら伝えられてきたもの です。似たような妖怪が少しづつ呼び名を変えながら広い地方に 伝わっているものもあれば、物語の主体の妖怪が入れ替わっている 話もあり、民話の広がり方、伝わり方には興味深いものがあります。 大雑把に言うと、奈良時代から平安時代に文字として記され始めた 妖怪の物語が、平安末期から中世にかけて仏教思想が入ったりして 絵巻物としても残され、江戸時代になると妖怪自体は架空のもの として認識され、半分はもて遊んで楽しむようになった というところでしょうか。
幽霊の方は江戸時代に隆盛をきわめ、怖いものの主体が妖怪から 幽霊に移行しているようです。怨霊のように国家や権力者に あだなすものとは異なって、幽霊は徹底的に個人の恨みを 晴らすために現れます。したがって一般的にはその恨みを 残した相手、殺された相手に直接現れて、縁のない人には 見えないのが基本です(あくまで基本です)。江戸時代には 劇や小説としての幽霊である「四谷怪談」や「牡丹灯篭」、 絵の分野でも幽霊画が多くなってきます。
怨霊、妖怪、幽霊と社会のシステムの関連については素人である 私が断定的に記すことはできませんが、怨霊が死者の霊であっても 国家的(というか共同体的)なものであり、貴族的な産物である (源義経や実朝、時代を経ての織田信長、豊臣秀頼あたりは 怨霊になって当然であるが、怨霊として人々の記憶に残っては いない)のに対して、妖怪は村的かつ土俗的な産物、自然と 人間との対峙の際の産物であるとも思われます。また幽霊は 徹底的に個人的な存在であり、もはや権力への反発では あり得ませんし、その物語も近代的個人心理での恐怖になって います。社会システムが安定し個の意識の発達した江戸時代に 幽霊がはやり、妖怪はもはや半分3枚目的な容貌を持つことと、 それらの事実とは深い関連があるかもしれません。
妖怪漫画といえば水木しげる氏が有名ですが、小説の世界では 1994年から旋風を巻き起こした京極夏彦氏を一番に あげることができるでしょう。「姑獲鳥の夏」でデビューした 氏の作品群のメインストリートは「妖怪小説」であり、 その最初のページには題材となった妖怪の画が載せられています。 しかもこれらは鳥山石燕の「画図百鬼夜行」他の画で統一されています。
氏の長編作品のタイトルを順に並べると 「姑獲鳥の夏」 「魍魎の匣」 「狂骨の夢」 「鉄鼠の檻」で、 次回作の予定は 「絡新婦の理」 となっています。また、これらの長編作品では、 タイトルの妖怪以外にも石燕の画が載せられていて、 「狂骨の夢」では「骸骨」が、「鉄鼠の檻」では 「青坊主」 「野寺坊」 「払子守」 「木魚達磨」 「大禿(おおかぶろ)」 「隠里」などが 載っています。残念ながら「魍魎」「骸骨」 「大禿」は「今昔続百鬼」の中に描かれているので、 今回のホームページには載っていません。
長編作品以外にも妖怪小説・百鬼夜行という名で連作短篇として 妖怪小説が書かれています。これは妖怪小説/百鬼夜行第一夜 「小袖の手」、 第二夜 「文車妖妃」、 第三夜 「目目連」と 三作が雑誌に発表されていますが、まだ単行本には まとめられていません。早くまとまるといいですね。
「百鬼徒然袋」では 最初に1枚 と最後に2枚 (1、 2)の 「宝船」で挟まれていますが、「宝船」に乗っているのは 我々にも有名な七福神です。さて七福神とは何かと 尋ねられたら貴方は答えられますか?
七福神とは、大黒天、恵比須、弁財天、毘沙門天、布袋、 福禄寿、寿老人の七人の福を与えてくれる神様をまとめて そのように呼ぶわけですが、七人の神様は出自も系統も いろいろと異なります。
まず古くから祀られたのは、大黒天と恵比須のようです。 室町時代の頃から一対で家を守る神になりました。大黒天は もともとインドのヒンドゥ教の破壊の神でマハーカーラ (マハーは大、カーラは黒の意味)とよばれる荒々しい神でしたが、 仏教では仏を守る守護神になりました。中国では寺院の台所を 守るといわれています。これが日本へ伝えられて寺から 民間へと広がり、忿怒の顔面から優しい顔へと変化しました。 鎌倉時代に、ダイコクという名前からか、神道の大国主命 (おおくにぬしのみこと)と習合して同じ神様と 考えられるようになり、台所の神、食物の神、豊作の神、家の神として祀られることになります。
恵比須は恵比寿、夷、戎、蛭子とも呼ばれ、七福神の中で唯一 純国産の神です。荒夷(あらえびす)とも呼ばれるように、 海の向こうの異界からの漂着神で、異界から種々のものを 恵んでくれる神であるとともに豊漁の神でもあります。鯨や鮫、 海豚といった漂着物をエビスと呼ぶ地方もあるそうです。 これらの意味からか、室町時代に現在の釣竿と鯛を抱えた姿に だいたい決まったようで、その後、商売繁盛の神としても 祀られるようになりました。
毘沙門天はインド・ヒンドゥ教の軍神、ヴァイシュラヴァナの ことですが、仏教では須弥山の中腹で方角の「北」を守護する 役割を担う多聞天(四天王の一人)となります。足利尊氏や 上杉謙信が本尊としたように、軍神としての役割が日本でも 残っているようです。七福神に入れられたのは、別名の多聞天が 多くの願い事を聞いてくれると解釈されたからとか、 毘沙門天王経に「財宝富貴自在の福利を得」と書かれてあるから とか言われます。
弁財天は奈良時代に伝来したインド・ヒンドゥ教の水の神、 サラスヴァティ(水をもつもの)のことなのですが、川の水の 音感からか音楽の神とされ、多くは琵琶を手にした姿です。 また、よどみなく流れる水の例えからか、巧みな弁舌と知恵の 神様にもなっています。これらの才能の神様ですから、本 来は弁財天ではなく弁才天なのですが、いつの間にか財の字が あてられて、弁財天の功徳は福徳自在ということになっています。
福禄寿と寿老人(寿老神)はどちらも中国の道教の仙人を 元にしていて、中国では南極老人という名で敬われています。 どちらも頭が長く大きくて長い白髭をたくわえた老翁で、 福禄寿は白い鶴(や亀)を従えるが、寿老人の方は鹿が お供になっています。鹿は禄の意味もあります。どちらの 神も南方系の島々でより祀られているようです。
布袋は中国の後梁時代(907〜923)に実在した僧と 考えられています。日本では大きな袋をかついだ笑門来福の 神とされていますが、中国では弥勒菩薩の化身として信仰されていて、 京都萬福寺では弥勒菩薩坐像と明記されています。布袋尊の 功徳は諸縁吉祥となっています。
七福神は京都の都七福神ができて室町時代には都七福神巡りが 流行し、それが各地へ広がる形で奈良の大和七福神、 笹もってこいで有名な今宮戎神社を含む大阪七福神、 東京は谷中七福神、目黒駅近辺の山手七福神などが定まり、 江戸時代には正月の七福神巡りが流行したようです。 他にも隅田川七福神(文化元年1804年)、浅草名所 (などころ)七福神などいろいろな七福神が定められました。
また七福神の神様ももちろん最初から決まっていた訳ではなく、 室町時代の七福神図には弁財天の代わりに天鈿女命 (あめのうずめのみこと)が入っていたそうです。また、 寿老人の代わりに吉祥天(毘沙門天の妻?)や猩々が加わった 時期もあったようですが、現在の神様に固定されたのは 江戸時代後期で、その後も福助やお多福を入れて 八福神との動きもあったようですが一般化しなかったそうです。
七福神と宝船の由来はよくわかりませんが、異界、異郷 (海の彼方)から富をもたらす福神ということでしょうか。
いろいろと怪異をなす獣類も多いわけですが、 中でも狐と狸は人に化けたり化かしたりで、 とても有名なものだといえるでしょう。
しかし、狐と狸にも特性があるのか、 狐は主に女性(美女)に化けて人間を騙すのに対して、 狸は男性とくに坊主に化けることが多いようです。 狐が化けた女性の話では、 有名な平安時代の陰陽師である阿部晴明の母親である葛葉や 殺生石 で有名な九尾の狐が化けた玉藻前(たまものまえ)などが有名です。 これに対して、狸で有名なのは茂林寺で守鶴という僧に化けた狸が 七代の住職に仕えた話があげられるでしょう。 これは茂林寺の釜として 文福茶釜の話にも関連しています。 石燕の創作では絹狸というのもあるようです。
狐が化けるときに頭に葉っぱを載せる絵をよく見かけますが、 これはもともと中国から入ってきたもので、 元は髑髏を頭に載せて北極星を眺めながら 髑髏を落とさずに宙返りできると化けることができるという話であったようです。
狐は化ける他にも 狐火 や狐の嫁入りといった怪異を引き起こします。 狸は狸囃子という音の怪異の方が有名でしょうが、 一応狸火というものもあるようです。
狐と狸が有名ではありますが、他にも怪異をなす獣は数多くいて、 蛇、猫、狢、鼬などもあげることができます。 蛇に関連した妖怪は濡女、 道成寺鐘、 蛇骨婆、 蛇帯などがあり、 猫は猫また、 五徳猫が、 狢は袋狢が、 鼬は窮奇、 鼬などで描かれています。
というわけで京極夏彦氏「絡新婦の理(じょろうぐものことわり)」 が無事出版されました。829頁とあいかわらず巨大な新書本であります。
今回の「絡新婦の理」では題名である 「絡新婦」の他に 「蓑火」 「否哉」 「丑時参」「百々目鬼」が本文中に載せられています。 丑時参、百々目鬼は「今昔続百鬼」の中に描かれているので、 残念ながら今回のホームページには載っていません。 なお、蓑火、否哉は簡易アドヴェンチャーである百鬼逍遥の中にも出演中なので、 お暇のある方はぜひそちらの方も探し出してください。
次作は「塗仏の宴」のようです。さて、次はどのような話でしょうか? 「塗仏」の画からすると、 またお寺系の話でしょうかね?