京の真ん中:不思議伝説ルート
クイック・ガイド


1.夜泣きの泉(三十三間堂)
今を遡る800年の昔。後白川法皇は、幼少の守仁親王の夜泣きを病を治そうと
慈覚大師の作になる地蔵大菩薩像に朝夕に願をかけていました。
と、ある日、願いが通じて地蔵尊いわく「蓮華王院の東の霊泉を用いよ」。
教えに従って親王に霊泉の水を与えてところ、ピタリと夜泣きが止まり、
それから、子供の夜泣きで苦労する親達の祈願が絶えなかったそうです。


2.耳塚
天下統一の後、大陸にも手をのばそうと朝鮮半島に侵攻した豊臣秀吉の配下の武将は、
当時、戦功のしるしであった敵兵の首のかわりに、耳や鼻を塩漬けにして日本に持ち帰りました。
それらが秀吉の命によって埋めらて供養されたのが、この耳塚。
静かにたたずむ五輪の石塔を見ていると、戦の残酷さと虚しさ、
そして大河ドラマでは見えない、秀吉のもうひとつの顔に出会える気がします。

3.唐門(豊国神社)
東山の阿弥陀ガ峰に葬られた豊臣秀吉を祀り、もともとは今の京都女子大の東、
今の豊国廊にありましたが、豊臣滅亡後、徳川幕府によって社号を廃止され、
朽ちるにまかせられていたものを、明治政府によって方広寺の境内に再興されました。
唐門は南禅寺の金地院から移した国宝。
このあたりは、豊臣秀吉にまつわるエピソードに事欠かない一帯です。

4.うらみの鐘(方広寺)
秀吉の創建による大仏殿が1602年の失火で全焼し、
父・秀吉の遺志を継いで秀頼がようやく再建にこぎつけたところ
開眼法要直前に家康からクレームがつきました。
理由は、東大寺の鐘をしのぐ巨大な鐘に「国家安泰」「君臣豊楽」と刻まれた銘が、
徳川家康への反逆の意志をあらわしていると曲解されたとのこと。
この出来事が、やがて大阪冬の陣、夏の陣を引き起こし、
豊臣家滅亡へのきっかけとなったそうで、
鐘の中の白いシミが、家康をのろう淀君の亡霊に見えるとも言われます。

5.迎えの鐘(六波羅密寺)
六道珍皇寺とならんで冥界への入り口として有名な六波羅蜜寺。
ここにも精霊の「迎えの鐘」があり8月8日から10日には万灯会が行なわれ、
迎えの鐘を突く善男善女が参集します。

6.迎えの鐘(六道珍皇寺)
精霊の送る祭事として有名な五山の送り火に対して、
現世と霊界の接点として、冥界へ旅立った先祖の霊を迎えるのが六道珍皇寺の「迎えの鐘」。
慶俊僧都が鋳物師に作らせた鐘は、その姿形の重々さもさることながら、
澄みきった音色が人々の心を捉えるのに充分だったとか。
ある年、慶俊僧都が留守にする3年の間、寺僧に万一のことがなきよう
鐘を地中に埋め置くように言いつけて遠く唐の国に旅立ちました。
1年半ほど過ぎたころ、寺僧が帰りを待ちきれなくなって
地中から鐘を取り出した突いたところ、
その音ははるか海を越えて、唐国にいる慶俊僧都の耳にまで鳴り響きました。
「3年間地中に埋めおけば、その後は自然に鐘が鳴りだすはずだったのに」
と慶俊僧都が嘆きましたが、もはや手遅れ。
その後も、寺僧の手によって突かれることになりましたが、
「唐国にまで届くほどに澄みきった音ならば、十万億土の冥土にまで届くに違いない」
と人々は、その鐘を深く信じるようになったそうです。
但し、残念ながら現在ある鐘は明治時代のものだそうです。

7.鬼子母神(寿延寺)
美しい顔でありながら夜な夜な他人の子供をさらっては食べていた女性。
お釈迦さまが、彼女の子供を隠してこれを戒め、護法神となり、
以来、求児・安産・育児の祈願を叶える神様となったのが鬼子母神の伝説。
寿延寺に祀られる鬼子母神には、場所がらもあって、昔から花街の女性の祈願も多いそうです。

8.目疾地蔵
ほの暗いお堂の中で、玉眼がうるんで見えるというお地蔵様は、
眼病の平癒に霊験あらたかとして全国からもお参りに来られるそうです。
元々は、霊界からのお告げで1228年の鴨川の氾濫を防ぐことからできたことから、
その報恩のために安置されたもので、
雨のたびに氾濫をしていた鴨川が静まるよう祈願されたところから
「あめやみ地蔵」と呼ばれていたものが、いつしか「めやみ地蔵」に変わったとか。
現在の鴨川は普段穏やかな表情ですが、
昔は水害と、その後の疫病で随分人々が苦しんだそうです。

9.官者殿
頼朝の命を受け、偽りの誓文で油断させて義経に夜討ちをかけた土佐房昌俊。
が、返り討ちにあって、
「忠義立てのために偽りの誓いをするものを救わん」と願をかけたとか。
以来、起誓払いの神、誓文払いの神として奉られ、10月20日の「誓文払いの日」には
一年間の空約束の罪を払いたいと願う人で賑わいます。

10.染殿地蔵
本尊の地蔵菩薩は秘仏で見ることはできませんが、
等身大以上の裸形の立像で、空海の作とも伝えられます。
文徳天皇の女御となった藤原良房の娘・明子(染殿皇后)のたったひとつの悩みは、
皇子を授からないこと。
このままでは藤原家一門にとっても重大事と、人から聞いたご利益にすがって
地蔵堂に願をかけたところ、めでたく懐妊し、後の清和天皇が生まれ、
藤原家が長く宮廷政治をつかさどることになったそうです。
これにちなんで安産守護の「染殿地蔵」として
人々に親しまれるようになったとのことですが、
その名前から、染色関係の方のお参りも多いそうです。

11.鯉地蔵
鴨川がよく氾濫し、また、五条橋以外に橋はなく、歩いて渡るのが当たり前だった昔。
店の主人に用を言いかかって、文箱を持って鴨川の川東へと出かけた若者。
店近くの蛸薬師にお参りして鴨川まで来てみると、折りからの雨で大水。
勇気を出して肩まで水につかりながら渡ろうとしたけれど、
果して足を取られてころんだ拍子に文箱は激流の中へ。
そこへ突然あられた大きな鯉が、文箱をくわえて、若者のもとへ。
以来、そのご利益の評判が立って鯉地蔵と呼ばれるようになりました。

12.さかれんげ如来
通称「さかれんげ寺」とも呼ばれる安養寺。
ここの本尊、阿弥陀如来像の台座は、上下が逆になっています。
これは本尊造立の際して台座が3度も壊れたので、
蓮台を逆さまにしたところ完成したとか。
また、女人は業が深く、心中の蓮華も逆さのために往生できないことから、
女人の往生を救うために逆さにつけらてたとの伝えもあります。

13.地獄地蔵
もともと矢田寺が大和の国にあったころのお話。
近くに住んでいた武者所康成という青年は、父の急死の後、義父となった男に
毎日、残虐ないじめを受けていました。
これに絶えきれなくなった康成は、ついに父母の寝室へ夜討ちをかけましたが、
暗やみのために誤って母の首を切り落としてしまいました。
懺悔のために矢田寺の地蔵に日参し、救いを求め続けましたが、まもなく病死。
が、地獄入りの寸前であらわれた地蔵に救われ、再び現世に蘇ることができたとか。
このお地蔵さま、もともと満上上人が閻魔大王に招待されたとき、
「世の多くの人の苦しみを身代わり」として、八寒八熱の地獄の責め苦を受けていた
お坊さまの姿を生きうつして刻み込んだというものいわくのあるもの。
1579年に、この矢田寺が大和から京に移されました。

14.火伏せ大いちょう
1788年(天明8年)団栗橋の付近から出火した火の手が、
みるみる勢いを強めて鴨川を西へ。
未明の火事で寝間着姿のまま逃げ惑う人々は「本能寺境内の神木ならば」
そのかげに身を伏せたそうです。
応仁の乱以来、京の町並みを丸焼けにした「天明の大火」の中にあって、
この神木の大いちょうは、火が本能寺を包んだときに突然水を吹き上げ、
身を寄せる人々に火傷ひとつさせずに護ったとのこと。
もともといちょうの木は水分が多く、火事よけに植えるお寺も多いとのことです。

   

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