津村喬@神戸
「震災後」の声を集める
Part-2
「知らないイランの人、ありがとう」
Winter 1996
『震災後の声を集める』Part 2。神戸在住の気功家にして評論家でもある津村喬さんが、「被災者」たちの最新の声を集めました。大震災から1年以上経って、以前と変わったことも変わらなかったこともあるけれど、いずれにせよ「異常事態」はまだまだ続いているようです。

voices-1
《ありがとう、みんな》
- お父さんたちが家の屋根直してくれた。まだ雨漏りしてる。けどやっぱりありがとう。[垂水区/11/女]
- きせきのようにおばあちゃんが助かった。ぶつだんのなかのおじいちゃんありがとう。[須磨区/11/女]
- 水汲み覚悟して風呂場のぞくと溢れんばかり。たすかったありがとう。(子どもたちへ)[西宮市/43/女]
- 汗を流しながらいっしょうけんめい水くみをしていた普段つっぱっているお兄ちゃんありがとう。[西宮市/14/女]
- ボランティアのひとはねないでやっているとねぶそくになってつぎのひなにもできひんで。[尼崎市/11/男]
- 友松さんは香炉小学校の配給の手配をしてくれた英雄です。[西宮市/12/男]
- 水たりへん。みんな思うはおなじこと。ひとくちのんだら水の大切さがわかった。[垂水区/12/女]
- 水の足りない時に通りかかった隣の団地のミャンマーの人が4本の水ボトルのうち2本分けてくれた。やさしかった。ありがとう。[中央区/12/男]
- 食べものや水をよくもってきてくれて。そっちのぶん残ってるの。[西宮市/8/男]
- テレビでけん血に行列つくっているのを見て感動した。[須磨区/11/女]
- 知らないイランの人、ガスボンベありがとう。うれしかった。[東灘区/11/女]
- ボランティアのみなさんあのじしんよりでっかいありがとう。[東灘区/9/男]
- 笑顔がどれだけ心強いかを教わりました。(ボランティアの人に)[芦屋市/15/女]
- わたしもボランティアに迷わず参加できる人になりたいです。[長田区/12/女]
パソコン通信Nifty-serveの「ふくしネットワークHYOGO」掲載の「ありがとうの一言メッセージ」からいくつかランダムに紹介した。身近な人へのありがとうが多いが、身近にイラン人やミャンマー人を「発見」した機会でもあった。
- 助けてもらって、ほかの地域にどうお返しできるのか、それをいつも考えて生きている。[市民フォーラム「女性フォーラム」での発言]
- 今でも(ボランティアの人から)手紙が来る。向こうは神戸で何年分のすごい体験をしました、ありがとう、って書いてくる。こちらも顔を思い浮かべながらありがとうって書く。また会いたい。[西宮の主婦]
- 神戸の体験を活かした救援隊を神戸市や兵庫県が作って世界に出かけて行けたらいいのに。[市民フォーラム「市民と防災フォーラム」での発言]
- 神戸からの市民レベルの第三世界援助の活動をやめてしまいたくない。困難な中だからこそ、いつもアジア、アフリカの人々のことを一緒に考えていきたい。「神戸を緑に」の植林活動はすばらしいが、六甲の復旧をし緑の神戸を作って、そのあとはアジアに出かけて行って植林をしたいというところまで考えてみたい。[NGO連絡会代表草地賢一氏]
ありがとうで世界がつながっていく。サハリンの地震に阪神地区の被災者は敏感な反応を示した。中国雲南の地震も、神戸新聞以外はほとんど報道もしなかったが、神戸ではその日のうちに態勢が組まれ、NGO連絡会気付での救援物資と寄金が2回にわたって現地に送られた。連合も現地に代表を送った。神戸と、神戸以外の地域が違う感受性の地域になってしまっている。
voices-2
《家庭の平和》
- 地震の直後は力仕事が多くて、夫にいてほしい場面が多かった。なかなか頼りになると見直した。[市民フォーラム「女性フォーラム」から]
- みんなでキャンプに行った時みたいなうきうきした感じがあった。お父さんはよく働くし、なかなかよかったよ。[中央区の主婦]
父親が見直された家族は多い。息子とこれだけ長時間一緒にいたのは初めてという企業戦士もいる。交通手段が寸断されたのが幸いした。逆に、会社の一大事と帰ってこなかった人もいる。
- もう顔も見たくない。とっさの時に私のことを考えずに猫の名前を呼んでいたの。[女性センターに寄せられた声から]
- 水汲みも何もかも私にさせておろおろしていた。あんなに情けない人と思わなかった。[同]
地震で変身した人もあったかもしれない。だがたいていの場合、ふだんしてきたことが拡大されて出てきた。おもしろい地域活動をしていた人はやっぱりおもしろい救援活動をした。いい夫婦関係を作っていた人はいっそう固い結びつきを作った。
voices-3
《仮住まいの人々》
- 医・職・住。仮設に大切なもの。つまり足りないもの。[仮設住宅の支援組織のリーダー・村井さん]
- 転校したけれど、しょっちゅうもとの学校に来て友達と遊んでいる。[市民フォーラムの「仮設住宅フォーラム」から]
- もとの家に帰りたい。一言でいえばそれに尽きる。[同]
地震の後、神戸から去らなければならなかった人、9万人。仮設住宅に住む人、9万人。地震後に病死、孤独死、自殺で震災関連死と認められた人、600人。避難所、テント、仮設に住む中で震災後まったく収入のなかった人、23%。震災失業者のうちハローワークに並んだ人、3万8000人。
仮設の生活条件は過酷である。仮住まいといっても、かけがえのない人生の一期間。快適に最小限満足できる暮らしをしたい。しかし近く出ていかなければならないとなると、意識を仮設に向けていいのか、もと居た場所に向けていいのか、将来あり得る住まいのことを考えればいいのか、「世界の中での私の居場所」がわからなくなってしまう。
- 郵便ポストがほしい。
- 買い物に行けないので、巡回バスがほしい。最寄りの店まで歩いて往復1時間かかる。
- かかりつけの医者のところに行きたいがとほうもなく遠くなってしまった。
- 避難所と違ってプライバシーは確保できたが、逆につきあいが作りにくい。
- 神戸の仮設にいられる人はまだいい。姫路や淀川、八尾などに離されてしまうと寂しい。
- 164人のうち年寄りの一人暮らしが52人いる。なんとかみんなで顔見知りになって、なかよくやっていきたい。
- 3軒ひと組で、1日顔見なかったら連絡くださいという態勢にしているのです。遠くへ行くときは自治会に連絡しようと、頼んでいます。
- 今一番問題なのは子どもたちの遊び場がないこと。
- 夜中にしょっちゅうトラックがドーンというのです。段差でもあるんでしょうか。そのたびに起きてしまいます。
- 区画整理をした田んぼの中に仮設を作ったので、すきま風がすごい。心のすきま風も。
- 自動車道の向こうに仮設を作ったので、むろん信号もなく、お年寄りは渡るのに時間がかかってすごく苦労している。少しずつ車が止まってくれるようになったけれども。
- 息子の死んだ場所に帰りたくない。この仮設に家賃払ってもずっと住んでいきたい。
- 災害救助法では避難所は7日以内と書いてある。それは7日たったら出て行けという意味ではなくて、そんなところに住まわせておくのは健康に悪いから、早くちゃんとした仮設を準備する責任が行政にあるという意味です。仮設は2年以内で、その間にちゃんとした公営住宅を作らなければいけない。それは行政の義務。あとの手当もしないで避難所から出て行け、仮設も2年、というのでは踏んだり蹴ったり。まったく本末転倒だ。
- 将来の生活をどうしたらいいだろうというようなことは「心のケア」で片づくことではない。社会的な負荷を「癒し」に求めてはいけない。
- 神戸市内の土地の17%を神戸市が持っている。僻地の土地で開発しようのないところばかりに仮設を建てて、開発に利用しようとしている。便利なところの土地はすべて使わないでおいてある。僻地の不良資産に被災者を利用した。
- 家は個人の財産じゃない。街づくりだ。誰も住まなかったら街じゃないことは、誰も帰ってきていない菅原市場の寂しさを見ればわかる。街づくりするのだからそれに国と自治体の金を出しなさい。これは堂々といえばいい。
- 将来も3万円以下の家賃でないと住めない人が70%いる。今進んでいる復興住宅ではその人たちは全部排除されてしまうことになる。
ここまでは「市民とNGOの防災国際フォーラム」で、15台のバスを仕立てて各地の(比較的遠隔の)仮設住宅から集まってもらった人々から上がった声である。足の引っかかる入り口に踏み台を作るとか、軒をつけるとか、ぬかるみに砂をまくとか、ちょっとしたことで改善できることも多々ある。でも自分のもともとの地域共同体を解体させられてしまったという根本問題は解決しない。またもとに戻って、もとの土地で自分たちの街づくりをし始めなければ解決はないのだ。
- あと何人死ねば面倒見てくれるのか。[「そして神戸」という被災者グループを作って活発に訴えかけをしている上野さん]
- 島原では特別立法を要求して、復興寄金ができた。神戸のほうが(立法化が)早く進んでくれると思ったが、ちっとも進まん。[島原の市会議員]
- あなた方のコミュニティを解体するのに、軍隊が使われたのかと質問した。抽選で進んで仮設にバラバラに行かされたと聞いて本当にびっくりした。神戸市民はおとなしいというか、信じられない。また自治体も、世界のどこでも災害復旧はコミュニティの力を借りなければできないものだが、それを率先して解体してしまうというのは、歴史上例がない。(国連居住委員会の調査団。神戸での聞き取りを終えて)
この1年で被災地を離れた人、24万人。被災者の「解散」が進んでいる。ハンガリー事件の後「そんなに政府が民衆を憎んでいるなら、国民を解散すればいいのに」と言ったB.ブレヒトを思い出す。しゃれでなしに、神戸市民の、兵庫県民の、解散が進んでいる。
法改正して個人保証を、というのは正しいし、結局すべてそこに焦点が行ってるのは当然だ。だが同時に、市民が自分たちの力でつながって意志決定していける仕組みを、力量を形成していくことがそれに劣らず大切なことのように思う。
voices-4
《死の街だからこそ生をはらむ》
- 今でも神戸は「墓」だと、一周年の日の明け方に長田の焼け跡に立って思った。事実焼け跡にボール紙の名札を立て花を添えた無数の墓がある。三宮や元町を歩いていると、地震がなかったかのように復旧ができてネオンがにぎわっている。すごいなと思う反面、死を見えないところに隠していくのが復興なのかなと疑問に思うことも多々ある。[ずっと震災の取材をしてきた某紙記者]
- 家も道具もみんななくなってしまった。だからぼくはもう神戸には帰れません。帰る家がありません。でも、生きていてよかったです。[「市民とNGOの防災国際フォーラム」で冒頭に読み上げられた小学生の作文から]
- 自然もすごいが、人間もすごい。地震で自然の力を思い知ったところがあるが、その後協力して奮闘したさまを見ていると、人間もすごいと思った。[コープこうべ副組合長増田大成氏]
- 人は必ず死ぬもの。今までの仏教はそれを葬式の時に話すだけですませてきたところがあるが、親族が亡くなった時にそれを納得するためだけでなく、自分の人生を完成する準備をお手伝いしていかなければいけないなと、神戸にいると思う。[ある僧侶]
- 地震は集団的な臨死体験だった。病気で死にかけた人がそのことを通じて人生の意味を知り、その後の人生を輝かせ始めることがあるように、阪神間の被災体験者も何倍も輝いた生を送ってほしい。[書店店主]
死を意識し、生の中の死を成熟させていくとき、人はそこから無数の生のエネルギーを受け取れる。生をただ消費するだけでなく。
- かあさん、よかったね。死んだらなにもならないんじゃないってわかった。ただ無限につながっているいのちの光の別の輝きに姿を変えただけなんだと、ここに来てわかった。[映画「光りの島」のナレーションから]
大重潤一郎監督による映画「光りの島」は長年撮り続けた沖縄・八重山諸島の映像を、昨年、神戸の「集団臨死体験」のただ中の感覚で編集したもので、死の癒しをテーマにしている。死者を美化するのでもなく、差別するのでもなく、私の生の当然の一部として受け入れて行けないと、生あるうちは生におごり、死に面してただ恐怖することになる。「この映画は肉親を失った神戸の人に見せたい」「小学生にまず見せたい」「仮設の人に見せたい」----映画を見た人は口々にそう評価していた。この夏には、昔なつかしい野外スクリーンを仕立てて仮設住宅をまわることになった。(文・津村喬)

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