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アートギャラリー

浮世柄比翼稲妻
(うきよがらひよくのいなづま)


二月堂良弁杉の由来
(にがつどうろうべんすぎのゆらい)

伊達競阿国戯場(だてくらべおくにかぶき)
累(かさね)

蘆屋道満大内鑑(あしやどうまんおおうちかがみ)
保名内(やすなうち)

競伊勢物語(はでくらべいせものがたり)
はったい茶

播州皿屋敷(ばんしゅうさらやしき)
鉄山下屋敷(てつさんしもやしき)

屏風絵
思わず目を背けたくなる絵のなかの魑魅魍魎たち。その屏風絵が、一年に一度の夏祭りの夜、灯りとともに闇のなかから怪しく躍り出てくる。このおどろおどろしい絵金の屏風絵を、なぜ、土佐の民衆たちは求めたのか。そこには7月、死んだ者たちが怨霊となって海から巷に戻り、災いをもたらすという土佐の土俗信仰があった。その怨霊たちもたじろぐ力を持った魔除けの絵として、絵金の絵はもてはやされたというわけである。絵は家の門口に外向けに出すのが流儀で、いまもこの方法で受け継がれている。絵金の描く芝居絵は、そのほとんどが上方様式の歌舞伎であり、七代目市川団十郎を描いたものが多い。追放後、いまも謎とされる空白の十年間、彼が上方の芝居小屋で暮らしていたのではないかという「絵金上方説」は、ここから推理されている。ところで、当時、絵金はどのくらいのギャラで屏風絵や絵馬提灯を描いていたのだろうか。一説によると、屏風絵は二両だったと言われている。当時の貨幣価値からすれば、一年分の米代に相当する。

写真提供:高知県赤岡町教育委員会


絵馬提灯
絵金は屏風絵だけではなく、数々の絵馬提灯も描いている。これは神社に奉納されるもので、毎年掛け替えられる。いわば、祈りのための消耗品でもあった。彼は絵馬提灯を一日百数十枚のペースで描き上げたと言われ、畳3帖分ほどの板絵馬の画料は1枚十両だったと言われている。この絵馬提灯は、絵馬あんどんとも呼ばれ、あんどん仕立ての表に芝居絵を貼り、内側に立てたろうそくの灯りでその絵を浮かび上がらせるというもので、絵金は墨線を主に描き、屏風絵とは違い、色彩は植物染料を使って透明感のある配色程度に仕上げたという。彼は、当時、紺屋や染物屋を中心に絵描きの卵など、300人と言われる弟子集団を抱えていたと言われる。土佐では今も男子誕生を祝って端午の節句に空に揚げられる大旗「フラフ」や土佐凧は、その弟子達によって受け継がれたものである。
写真提供:三谷 章

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