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TRADITIONAL CHINA
中国音楽
中国は昔から、「礼楽の邦」と称されて来ました。非常に古くから豊かな 音楽
と音楽理論が生み出され、
そして、生活の中に持ち込み、他の文化 と同様 に悠久の歴史を持っています。
伝説の音楽
中国音楽の始まりは、古い書物「呂氏春秋」によると、黄帝が伶倫 といういう人に、律を作らせました。伶倫は、一対の鳳凰の鳴き声を聞き
雄の鳳は、高低六つの音で鳴き、雌の凰も、やはり六つの音で鳴き ました。伶倫は、聞いてはっと悟り、鳴き声にあわせて、自分の作って
笛の音高を決めました。
黄鐘, 大呂, 太ぞく, 夾鐘, 姑洗, 仲呂,
すい賓, 林鐘, 夷則, 南呂, 無射, 応鐘
という十二の律の「律音」が完成しました。これは以後、音楽の創作、演奏の
基準をもつことになりました。
歌
河北の民謡
河北省北部は、古く戦国時代には、燕国、のあったところで、山険しく、人々は
勇猛果敢でした。「燕趙悲歌」という言葉は、ここから生まれました。有名な
「易水の別れ」は、そのようなところに生まれました。
紀元前二二七年のある冬、燕国の太子丹の一行が、
易水(今の河北省の易県にある河の名)のほとりまで、一
人の勇者を見送りに来ました。その名は荊か。
当時、秦国の国王はすでに政(のち秦の始皇帝)で、各国はその威風におびえ、
滅亡の危険すらありました。荊かは丹の命令をうけ、秦王を刺殺しにいくところな
のです。送別の儀式で、荊かは高揚した調子で歌いました。
「激しい易水の流れ、すさぶ北風の中を、壮士は、帰れぬ人」
荊かの死をも覚悟した固い決意のほどは、
見送る人々の心を強く揺さぶった彼の歌にありありと見受けられます。
そして、河北省のこの歌は常に「燕趙悲歌」とたたえられてきたのです。
河北省北部の民謡は、南方のものと比べると、
勇壮な感じのものが多いようです。
山西の民謡
黄河は西から東の方の海に向かって流れていますが、
その長い道のりの途中には、いくつもの曲折があります。
その一つに、山西の北部の河曲県という県があります。その小さい
な河曲県を全国に知らしめているものが一つあります。
河曲の民謡と、そこから出る歌手です。
この地の民謡は「山曲」とも呼ばれます。
どういうわけかわかりませんが、むかしから、
この地方の人々はたいへん歌が上手です。
歌の名人になると、当地の農民いわく
「三日三晩歌い続けても同じ歌は出てこない」ほど、たくさ
んの歌を歌うことができるそうです。
この地の民謡がいかに豊富である align=rightかが分かりますね。
河曲の山曲の構成は比較的単純で、二つの楽句からなり、四小節が一楽句をな
くして八小節で一曲をなします。ただし、歌う際にリズムは自由にとられ、
多くの民謡がそうであるように、内容や感情に合わせて、旋律やリズムには、
いろんなバリエーションが創りだされます。
河曲の山曲の中でも、とくに有名なのが「走西口」です。
河曲という地は、自然条件が悪いところでした。
そのため、土地を持っていない農民は家を離れ、西北の「口外」に出稼
ぎにいくのでした。家から離れる時、見送りの妻に歌うのはが、その「走西口」
です。故郷と親人に離れるときの悲しい歌なのです。