だから、空海のなかで「書」はダンスや気功や武術と同じような行為として考えられていた。 「鳥」の足跡に啓示されて文字を生み出したとされる蒼頡(そうけつ)や、「龍」に同一化しつつ生気に満ちた書を残した王義之(おうぎし)の例を引きつつ、空海は「五禽技」や「太極拳」やシャーマンの宇宙舞踏の本質に連なるような、自己を世界に開け放つ“散逸的”な身体運動としての「書」の本質を語る。 風や水や動植物の動きをまね、そうしたさまざまな別々の主体に同一化しながら、自己と世界をつなぐ多様な生命情報のリンクを探りだしてゆく、動的なコミュニケーション・プロセスとしての「書」。 それは、芭蕉流にいえば“松のことは松に習へ”という、「生命の海」を泳ぎわたるインターネットワーキングの手法なのだ。 何の変哲もない一本のトマトの木にも、生命と人間の未来に対するポジティヴな“SENSE”を観ることもできる。 慣れ親しんだ「文字」の一つひとつにも、私たちの「人為」と「自然」が交わりあう、生命情報系と文化情報系のざわめく臨界面(インターフェイス)を見出すことも可能なはずだ。 「文字」という情報系は、私たちが思っているよりはるかに大きい。人間が創ったものでありながら、単なる人工的な「記号」を超えた、自律的な遺伝子情報系と共生進化のダイナミズムをもつ。 “書き初め”の伝統とキーボード(活字)強迫の現代の狭間で惑う日本人が、そして多様な言語/文字文化を擁する世界の人々が、どのような形で「文字」というものの持つ意味を再発見していけるだろうか。 |