1955年東京生まれ。1984年慶應義塾大学大学院工学研究科数理専攻博士課程修了。東京工業大学情報処理センター、東京大学大型計算機センターを経て、1990年から慶應義塾大学環境情報学部助教授。 ある雑誌で"世界で最もワイアードな学者"と評された村井は1984年、当時はまだ民間による自由な通信回線の利用が認められていなかった日本で、UNIXを電話回線でつないだコミュニケーションのためのコンピュータ・ネットワーク「Junet」の構築を仲間たちと始めて以来、人類にとっての新しい知的環境としてのインターネットの基盤づくりに尽力している。 写真:広路和夫氏(「インターネットの理解」朝日新聞社刊より転載)
JunetからWIDE(Widely Integrated Distributed Environment)、そして現在に至る村井の軌跡は常に既存の通信秩序と格闘し、時には自ら「ゲリラ的」ともいえる活動を通じて今日のインターネット環境を支えてきた。また国際的にみても、UNIXの日本語化を働きかけ、モノカルチュア(英語中心)だったコンピュータの世界に文化的な多様性を取り入れようとしてきた。ただし、彼にとってコンピュータやネットワークといったデジタル・テクノロジーは常に人間の周辺にあってそれを支援するもので、決して中心にあるのではない。
最近の著書『インターネット』(岩波新書)の中で村井は次のように語っている。「テクノロジーが人間の社会をどのように変えていくかということについて、その答えと方向性を決めるのは、あくまでテクノロジーの基盤の上に立っている人間の責任でしかありえません。テクノロジー自体が決めるものではないのです。テクノロジーは人間の足の裏までであって、それ以上ではない、とくにコミュニケーションのテクノロジーというのは、そういうものだと思います。
しかし、とにかくその上に乗って見ないことには、どんな感じがして、何ができるのかはわかりません。.....そういう意味で、新しい情報インフラストラクチャーをつくっていくということは、非常に高速で高度なマルチメディアの通信網をつくっていくということ以上に――それはそれとして重要な挑戦ではあると思いますが――誰でもが、どんな時にでも使えるような環境を提供していくということが、重要だと思います。インターネットというのは、たぶんその後者の役割を、いまの社会でとりあえず実現したのだと思います」
現在は、ネットワーク技術実験組織であるWIDEプロジェクト(http://www.wide.ad.jp)代表のほか、日本ネットワークインフォメーションセンター長、 日本インターネット協会副会長、さらに国際的にはIAB(Internet Architecture Board)やIEPG(Internet Engineering Planning Group)などの委員を務めている。
ちなみに村井はプロ顔負けのギターの腕前を持ち、自分のコンピュータに「クラプトン」という名前をつけていた、というエピソードもある。
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