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川舟大工は、川と森と川漁のことが理解できないと良い大工になれないですよ。まず、良い木(杉)の見極めが大切。森が荒れているから、以前に比べると良質の杉は少ないね。杉を選び、板に挽き、乾燥させる。乾燥させるときに最大の注意を払うんですよ。時間をかけないと木が縮んでひびが入るから。川舟は使用する目的によって微妙に設計が変わります。長年の経験があるから、設計図は用意しないが。フナバリの反り上がる角度、曲がり具合などは科学的に計算して作っています。年をとると自分のしたい仕事じゃないとダメだね。集中して川舟を作っている時が一番楽しいよ。加用克之さんの写真


小舟イラスト

明治時代から昭和中期にかけて、四万十川には川漁用の小舟(コブネ)のほか、次のような川舟が運行していました。
川舟の歴史と運行・種類
川舟の写真川舟の写真



センバ
西土佐村江川崎から、中村市下田を主に結んだ運搬船です。大センバは長さ約13メートル、横幅約2メートル。小センバは長さ約11メートル、横幅約2メートルありました。風がある日は帆柱に帆を張り、風の力を利用していました。櫂はなく櫓のみで運行し、二人乗りです。主な運搬物資は木炭、松縄、シズラ縄など林産物や、和紙、椎茸で、水量にもよりますが約350キロ位積んでいたといわれています。上り荷(帰り荷)は米、塩、その他日常雑貨品を運んでいました。

高瀬舟
十川、広瀬など十和村と江川崎を運航する運搬船です。なかには下田までいく船もありました。江川崎からのゆったりした流れと違い、中流域の波を避けるためにフナバリとミヨシがそり上がっているのが特徴です。櫂が二つ(カシラ櫂とトモ櫂)と櫓がありました。また帆も立てていました。

センビ
十川より上流と、目黒川、吉野川など支流で使われていた運搬船がセンビです。支流の急流や激流に合った作りで、高瀬舟よりミヨシとフナバリがそりあがっています。しかしセンビは地域によって呼び名が異なりました。大正町、窪川町などではこの舟を高瀬舟と呼び、十川地区の舟を大高瀬舟と呼び区別していました。

その他
渡船は御用船、チュウブネと呼ばれていました。四万十川流域には多くの渡し場がありましたが、沈下橋の普及で減少しました。昭和初期に中村の下田〜佐田間を運航していたのが屋形船です。今では川下りなどの観光船としての屋形船が有名です。川漁用の舟で艫が低く、ミヨシが少し高くそりあがっているのがピンピン舟。四万十川水系の全河川に見られるのがコブネです。主に川漁用に使用されていますが、農作物や肥料の運搬用としても使われてきました。

運 行
下流の水量の豊かなところがセンバ、中流に高瀬舟、センビが運行したように、水量や瀬(波)、岩礁など川の条件に合った舟が就航していました。上流から運ばれる物資は、途中の中継河岸で積み替え運行する継舟制(リレー式)が原則でした。主な中継河岸は十川、広瀬、井崎(十和村)、江川崎、津野川、口屋内(西土佐村)でした。

操 舟
センバには二人の船頭が乗り、主に夫婦や兄弟で運行していました。下り荷の時は川の流れにまかせているので良いのですが、上り荷の時、瀬では川原を歩きながら引き縄を肩にかけて引き上げていました。高瀬舟やセンビもマエノリとアトノリの二人乗りです。マエノリはムコウ櫂で舵をとり、うまく岩や石を避けながら下りました。また淵(トロミ)では櫓を使って操作しました。マエノリは高度な技術が求められました。上りの時はアトノリが川原を歩きながら舟を引き上げ、マエノリが舵を取りました。

歴 史
四万十川の川舟の始まりははっきりした記録が残っていませんが、明治時代から流域の木材、木炭などの需要の高まりから、舟運が盛んになったようです。明治後期から昭和初期にかけて、四万十川に帆をかかげたセンバが行き交う風景は壮観だったといわれています。昭和30年頃からトラックによる輸送が盛んになり、センバ等の運搬船は次第に姿を消していきました。


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