土と炎の結晶である焼き物は、「五彩」と「金彩」による 上絵付けをほどこされて芸術的な九谷焼になります。19世紀はじめに、酒造、米商、金融業を営む吉田屋伝右衛門(でんえもん)が九谷焼の復興を図りました。これが世にいう吉田屋窯。1826年、吉田屋は窯元(かまもと)として、陶工に対し「定(さだめ)」を出しました。博打、喧嘩、酒宴の禁止、陶工が消費者から直接に注文をとることの禁止、陶工の病気に際しては、飲食を与えること、他国の陶工の求職については窯元に知らせるなど、10カ条からなっています。この頃の吉田屋窯は赤を使わずに紺青、緑、黄、紫を素地全体に活かした青九谷。後に名陶工が出て、赤絵金襴手(あかえきんらんて)を考案しました。 |
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