《八条宮智仁親王》![]() 桂離宮の作者・八条宮智仁(としひと)親王(1579-1629)は、後陽成天皇の末弟で、後水尾天皇の叔父。幼い頃から芸文に秀で、絵画・音曲にすぐれ、煎茶・立花のたしなみも深く、蹴鞠、馬術、弓など屋外の諸芸に至る万能の天才とうたわれる。中でも歌道は抜群で、22歳の時、当時文化人最高の栄誉とされた古今伝授を細川幽斎に許された。 さて親王が10歳の時、豊臣秀吉に実子がなかったことから、その養子に迎えられたが、間もなく側室淀の方に鶴松が誕生する。やむなく秀吉は幼い親王に所領3000石を与えて新たに八条宮家をおこした。後に、親王37歳の折りには千姫の結婚相手としても候補に上がり、婚儀の日取りまで決まっていながら、実現しなかった。 やがて豊臣家が滅び徳川の世になると、こうしたいきさつが親王の社会的立場に微妙な影を落とすようになる。天皇の叔父であり、当代随一の文化人でありながら、幕府と一歩距離をおき、中央の動向に直接関与することはできない。この境遇が、王朝の栄華をしのぶ離宮造営への執念につながっていったのかもしれない。 親王が桂の山荘整備を始めたのは1617年頃からのことらしく、3年後にはだいたいの体裁を整え、たびたび客が訪れていた様子がうかがえる。 1629年に智仁親王が亡くなると離宮は一時荒廃するが、二代目智忠親王時代に、徳川幕府の援助もあって復興と増築がすすんだ。 古書院へ戻る |