Dec. 17, 1996 |
Art Watch Index - Dec. 24, 1996
【中村政人展《TRAUMATRAUMA》】 ………………● 名古屋 覚
【勅使川原の新作『真空』
【《'96 アーキテクチュア・オブ・ザ・イヤー》展】
【常に既に失われた楽園、
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中村政人展《TRAUMATRAUMA》
会場風景
We're FamilyMart http://www.family.co.jp/
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中村政人展《TRAUMATRAUMA》 ●名古屋 覚
日本の若い世代の現代美術家の中で活躍が目立つひとり、中村政人(なかむら まさと・1963年、秋田県生まれ)の最新の個展が、96年11月7日から12月14日まで、東京・谷中のギャラリー、SCAI THE BATHHOUSE で開催された。美術を取り巻く社会への関心を共有するこの世代の作家たちのグループで、造形的に最も突き詰めた作品を発表してきた中村らしく、現代日本の批評性に優れた描写であると同時に強烈な視覚的効果を備えた、極めて印象的な展示であった。 コンビニのサインボードを作品化
作品は、街中でよく目にする大手コンビニエンス・ストア4社の蛍光灯入りのカラフルなサインボードから、社名を抜いたもの。ただし、街からそのまま運んできたのではなく、作家が各社の了解を得て、それぞれのサインボードを材料、製法、デザイン、色彩のすべてについて忠実に再現し、ギャラリーの壁に展示したものである。白―青―赤、緑―白―青、オレンジ―赤―白―ピンク―青、白―オレンジ―緑―赤と、おなじみのカラーが勢ぞろい。幅4メートル弱にそろえられ、それぞれ3段に重ねられた各社の“看板”は、かりにそれらがコンビニエンス・ストアのものでなかったとしたら美術作品として立派に通用しそうな美しさである。さながら、ミニマリズムの新作のようで、新鮮な驚きを感じさせた。 残念な展覧会タイトル あえて難を言えば、「TRAUMATRAUMA」なる展覧会タイトル。精神的外傷を意味する「トラウマ」で、日常の風景から無意識のうちにわれわれの意識に刷り込まれたコンビニエンス・ストアの商業デザインを言い表わそうとしたなら、あまりの飛躍か、まったくの陳腐かのどちらかである。しかもそれを二つ重ねることにどんな意味があるのか……。これに限らず、最近の展覧会名や作品名には、どうにも理解しかねるものがままある。展覧会企画者や作家の思い込みで、外国語を誤用したものも目につく。日本のアートシーンを海外に紹介しようとしても、意味不明やら翻訳不能の言葉が続出したのでは、お手上げである。美術の世界では“常識”である用語も、そのままでは一般の世界では通用しないのであって、展覧会企画者の役割は一般の人々に顔を向けて語りかけることであるのを、忘れないでほしい。特に、欧文のタイトルを付ける場合は専門の人に相談することを、強く勧めたい。 [なごや さとる/美術ジャーナリスト]
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勅使川原三郎+KARAS 『真空』
勅使川原三郎+KARAS『真空』
勅使川原三郎+KARAS
山海塾 Butoh Dance | Sankaijuku http://www.bekkoame.or.jp/ ~kasait/butoh/butoh-e1.htm
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勅使川原の新作『真空』 ●熊倉敬聡
勅使川原三郎の新作『真空』を観た。日本での久しぶりの新作公演である。それだけに期待は大きかった。 勅使川原の「過去」 「過去」とはこういうことだ。─勅使川原の舞台の特徴とは、良きにつけ悪しきにつけ、「ダンス」と「美術」の拮抗にあった。彫塑を学んだ彼は、単にコレグラフィーのみならず、舞台美術をも彼の「美学」の表現の場とした(実際、彼は、いわゆるダンス活動の傍らで、インスタレーション作品も制作している)。そして、その「美術」への志向は、単に舞台美術のみならず、彼のダンスそのものの中にも内在していた。彼のダンスとは、とりわけ、彫塑的造形性=フォルムへのヴェクトルとそれを内側から身体の強度へと連れ去り、微分化しようとするヴェクトルとの闘い、拮抗にこそあったのだ。したがって、それが、フォルムへの関心にぶれすぎる時、「美術」が過多になる時、身体は「美術」の傀儡へと堕することがあった。しかし、このフォルムへの、「美術」としての身体へのこだわりは、勅使川原個人の中ではほとんどの場合、彼の天才的な身体の強度とその微分化によって、奇跡的な「踊り」の生成に寄与していたが、それが彼のチームの他のダンサーに及ぶ時、(勅使川原の「天才」を持ち得ぬ)彼らの踊りをむしろ抑圧し、彼の「美学」へと捧げられた犠牲体に化しているように見えた。そして、その美学的専制は、自らを突き詰めれば突き詰めるほど、「マニエリスム」へと、(たとえば別な形ではあるが山海塾が陥っているような)マニエリスムへと自らを追い込んでいく危険性をはらんでいた。 他者への愛、あるいは“移動”の開始?
そのような「マニエリスム」への兆しを、今回も随所で散見できた。KARASの幾人かのダンサーの踊りそのものの中にも、そして舞台美術、照明、演出等々の中にも。 しかし、『真空』はそれだけでは終わらなかった。それは、まさに「未来」へと、未知の何ものかへと“移動”する気配をみせた。そこでは、勅使川原のパーフェクトであるべき「美学」が、綻びをみせていた。その「綻び」とは、“他者”への開かれである。勅使川原の美学的専制は、あろうことか、他者の方へと、“異なるもの”の方へと自ら崩れようとしていた。その「綻び」はたとえば、KARASの何人かのダンサーの(「抑圧」から)解き放たれた身体の躍動の悦びにみられたし、そして何よりも、勅使川原が数年前から行なっている「ワークショップ」の─本連載の初回で紹介した─メンバーたちの起用の仕方に表われていた。それらメンバーたちは、確かに場面によっては、従来通り、彼の「美学」への犠牲体となっていたが、あるいは個人的な特徴が単に「キャラクター」として使われていたにすぎない場合もあったが、今回はそれだけでなく、「上手」ではないもの、「完璧」ではないものを、ありのままに受け入れようとする構えがみられたのである。確かにその「受け入れ」の構えが、演出上、失敗している場面もあった。しかし、そこには明らかに“他者”への愛が感じられた。
[くまくら たかあき/
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《'96 アーキテクチュア・オブ・ザ・イヤー展
−カメラ・オブスキュラあるいは革命の建築博物館》
会場風景
中心の茶室には磯崎氏の書籍が収蔵されている
「究極の建築」
「もうひとつの明治計画」 撮影:大高隆(いずれも)
《'96 アーキテクチュア・オブ・ザ・イヤー展 −カメラ・オブスキュラあるいは革命の建築博物館》 Architecture of the year 1996 http://ziggy.c.u-tokyo. ac.jp/opens/archofyear.html
Tanaka Jun's Site
Grand Lodge of California - Home Page
MASONIC B.B.S. Inc.
BURLINGTON LODGE
Norihito Nakatani
The Josef Stalin Internet Archive
毛沢東
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《'96 アーキテクチュア・オブ・ザ・イヤー》展 ●岩谷洋子
革命を巡る建築と政治の歴史的考察 《'96 アーキテクチュア・オブ・ザ・イヤー》展が、東京・池袋のメトロポリタンプラザで11月20日から12月3日まで開催された。磯崎新氏をプロデューサーとして「カメラ・オブスキュラあるいは革命の建築博物館」と題し、氏のもとに指名された4名の若手キュレーターがそれぞれのテーマで展示空間を構成するといった設定である。 会場では「カメラ・オブスキュラ」(=写真機のもととなったルネサンス期の暗箱)と重ね合わせて、ガラス仕立ての茶室が中心に据えられている。それを革命の建築に関する言葉で壁一面が埋め尽くされた「言説の部屋」が取り巻き、さらにその回りを4室に区分された展示室が囲むという入れ子構造になっている。 幻視の器械−フランス革命と建築 はじめに田中純氏をキュレーターとする第1室「幻視の器械」へと導かれる。そこに配された「光窓」は、フランス革命期を生きた2人の建築家、ジャン=ニコラ=ルイ・デュランとジャン=ジャック・ルクーの眼球という、2様の幻視器械を現代に再び召還するための観測器である。『recombination 2』ではデュランの公理に則り、スケールを無視して立面の高さを一様にそろえた偽テキスト・データを、大きな水平フレームの青色画面に割り付けている。それは遺伝子組み換えにより再出力された『比較図集』である。一方『J.L.Q.』では垂直フレームの3つの箱が、部分への解体・拡大・接合によるルクーのモンタージュとして並べられている。それぞれ「セックス/身体」・「フリーメーソン/ヘルメス主義的地下思想」・「オリエンタリズム/帝国主義的世界像」という時代意識に読み換えが可能である。 世界・建築・地図−もうひとつの明治計画 第2室は中谷礼仁氏をキュレーターとする「もうひとつの明治計画」の展示である。日本における江戸から明治にかけての一大転換期を生きた建築家伊東忠太の野帳を取り上げることで当時の建築像の変遷を示している。伊東忠太により断片的に世界が切り取られている野帳と当時の世界認識とを比較するために、「萬国絵図」が展示されている。また、明治35(1902)年に発表された、第5回内国勧業博覧会のための構想としての巨大な螺旋塔の図面や模型も展示されている。 究極の建築−社会主義国家のファンタズム 第3室は、松原弘典氏をキュレーターとする「究極の建築」である。ロシア革命と中国革命から生まれた社会主義世界の建築像が表現されている。スターリンが発意したソヴィエト・パレスのコンペでのB.M.イオファンらによるパースペクティヴ、毛沢東による人民大会堂の計画、モスクワ建築大学付属博物館所蔵のガモン・ガマンによるドローイングなどが並べられ、社会主義国家建設に向けての理想や躍動する当時の状況が伝えられている。 都市量産業−メイド・イン・トーキョー
次の貝島桃代氏をキュレーターとする「都市量産業」と題する第4室に至って展示室を一巡することになる。物流・交通・情報・製造・住居などが渾然と一体化した建築を東京23区から抽出し、「メイド・イン・トーキョー」と名付けた。これらの建築の写真をアイロンプリントしたTシャツはハンガーレールに吊され、展示と同時に随時流通される。「メイド・イン・トーキョー」による物流や情報を、ここでも直接的に体験するのであろうか。 [いわや ようこ/建築]
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《ジョナス・メカス作品展―静止した映画フィルム》
Filmography for Jonas Mekas http://us.imdb.com/ cache/person-exact/e11197
『リトアニアへの旅の追憶』
John Winston Ono Lennon by Akira Hangai
John Lennon
Filmography for
Filmography for
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常に既に失われた楽園、 ●森田祐三
追憶 ちかちかと明滅する光の中に定かならぬ形象として夢幻のようにたち現われてくるものたちが、あたかもそうすることが始源よりの理であったかのようにやがて身を落ちつける場所があるとするなら、そこが追憶という楽園であると誰かが言ったとしても不思議ではないだろう。『リトアニアへの旅の追憶』(1972)の「追憶」が、英語ではreminiscence(s)であることを思えば、その楽園とはまさしく、「魂が前世で知っていた記憶」というプラトニスムにおけるイデアにあたるものであることも自明である。実際、『「いまだ失われざる楽園」、あるいは「ウーナ3歳の年」』の「楽園」がメカス自身にどのように捉えられているかと言えば、ウーナが大人になってからはもはや記憶していないだろう時間であり、リトアニアの田舎というメカスが少年時代を過ごし、ウーナもまた幾ばくかの時を過ごす場のことなのだから、ここでフィルムの運動が指向するものは、やがて為されるだろう追憶をあらかじめ先取りした形で定着させることなのである。撮るときも見るときも絶えず現在でしかないフィルムの運動にこのような思いを馳せることはかなり「アナクロニック」なことだし、システマティックに制御された時間表象を糧としたハリウッド映画を虚構として非難する者の考えには相応しくないと思われるのだが、「作者というものはしょせんは自分のエクリチュールを知らない存在なのだ」(石光康夫)と断言するほどの根拠もここにはないのだから、メカスの映画の発散する奇妙な魅力は「作者」の弁から離れたところにあると言わねばならない。 回帰 追憶の特権的なフィギュールは回帰だが、それはリトアニアへ/からの往還という旅一般の慣習や、不在と化したジョン・レノンを(追憶の一形態として)追悼するために集う人々という心理的な了解、あるいはまた「ウーナ3歳の年」の雪で始まり雪で終わる季節の自然的回帰といったものであるだろう。つまり、自分を「filmmaker」ではなく単に「filmer」だと言うメカス(deja-vu bis. 2号)は、きわめて律儀に、というか無防備に、回帰という主題をさまざまに表象する映画をつくっているのだ。同じものが回帰することを時間に沿って展開すれば物語の典型となり、ヤクザ映画の渡世人を思うまでもなく、スクリューボール・コメディは夫婦喧嘩という形で、メロドラマは旅立ちと帰還という形でその豊かな資産を築いてきたのだから、知らぬ間に回帰の主題を反復するメカスは実は優れた物語作家であるといえるだろう。このことの意味は重大である。なぜなら、メカスの映画はアメリカ映画の系譜に連なることになるからだ。なるほど、確かにメカスの映画は断片から成り、手ぶれや光量不足が際立つことがあるかもしれない。だが、それを例えばエイゼンシュテインの映画の傍らに置いてみれば、メカスの、物語にたいする、正確にはある種の語りのエコノミーにたいする親和性は明らかだろう。「西部劇ではよく、だれかがどこかよくわからないところからやってきて酒場の扉を押し、ついで、ラストでは、どこかに姿をくらまします。そこに描かれているのはその人物の断片にすぎないのですが、でも不思議なことに、その断片は、人々にある物語の全体を生きたと思わせるものをもっています。そこにアメリカの連中の力があるのです。他の連中にはそうしたことはできません」(ゴダール)。 遭遇 『「いまだ失われざる楽園」、あるいは「ウーナ3歳の年」』の終末、雪の降りしきる歩道を歩いてきた「癌で死ぬ年のニコラス・レイ」が、それを撮しているキャメラの方を見向きもせずにうつむいたまま通り過ぎていく光景がある。カサヴェテスと同じ時代をメカスが生きたということは、彼の言う「ハリウッド」との闘争が、レイの時代のそれとは異なっているということだ。「アメリカ人には、自分たちの物語を世界のほかの国々の人々に押しつけるということができるのです」とゴダールが言うとき、この「アメリカ人」が実際のアメリカ人というよりも、メカスの「ハリウッド」と同じく、抽象的であるが故にいつまでも鬱陶しくまとわりつく存在であることは言うまでもない。優れた物語作家足りうる資質を持ちながら、物語を語ることに素朴ではあれ抵抗を試みるメカスは、やはり倫理的な存在なのだ。実際、将来においては既に思い出せないほど失われているだろうものを記録するということは、フランスのさる精神分析学者が、彼の言う「リアルなもの」を何とか言語化しようとして前未来形を駆使せざるを得なかったことを髣髴とさせる。その「リアルなもの」とは「常に既に」失われているがために起源として反復を可能にさせるものだったが、映画においては、いま・ここで運動している現在が、ひょっとしたら「常に既に」失われたものかもしれないだろう、とメカスは気付いているのかもしれない。 [もりた ゆうぞう/映画批評]
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