Sep. 10, 1996 (a) Nov. 5, 1996 (a)

Column Index - Sep. 10, 1996


a)【アクティヴな場に立ち会う〜秋山邦晴氏を悼む〜】
   ……………………●柿沼敏江

b)【同潤会代官山アパートメントハウス
 ―都市空間の保存問題について】
 ……………………●槻橋 修


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さよなら同潤会代官山アパート展

《再生と記憶》

1996年8月8日-12日
同潤会代官山アパート
《同潤会代官山アパート1927》展
1996年8月8日-12日
アートフロントギャラリー
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アートフロントギャラリー
Tel. 03-3476-4868
Fax. 03-3476-4874





TOKYO ROCKIN' FEATURE ISSUE
(同潤会アパート)
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同潤会代官山アパートメントハウス
―都市空間の保存問題について

●槻橋 修

 

保存運動の地理学的側面

同潤会代官山アパートの取壊しが始まった。「再開発」の声が上がってから15年余 、ついに代官山の名所は姿を消し、4年後には容積、高さ共に約12倍の都市型複合 施 設が出現するそうだ。取壊しが目前となって、各種メディア上で代官山アパートを 惜しむ声が紹介され、また個人的にも、再開発を批判する声をしばしば耳にした。ア パートの住人だけでなく、代官山に職場をもつ人や買物に来る人など、直接利権の絡 まない多くの人たちが取壊しに反対を唱えた。歴史的建造物や伝統的な町並みの場合 、歴史家などの有識者が音頭をとって市民レベルの保存運動に発展することがある。 しかし代官山アパートにおいては、反対派の声は自然発生的で、主張の要点も建築物 の歴史的評価とは別のところにあるようだ。つまり「保存」ではなく「取壊しの反対 」であるということ。たとえばフランク・ロイド・ライト設計(1923年)の帝国ホテ ルが1968年、ファサード部分に限り明治村に移築保存されたような、建築学的な保存 措置は、彼らにとって意味がないであろう。高度経済成長期、オイルショック、そし てバブル景気を経て、すっかり様変りしてしまった代官山に今なお存在しているとい うことが、惜しまれる理由となっているのである。「取壊し反対」を巡る問題は、代 官山アパートの歴史性よりもむしろその空間性に関わる問題と考えるべきであろう。

同潤会と「代官山アパートメントハウス」

とはいえ、同潤会代官山アパートは日本の建築史上、あるいは社会史上重要な意味を もっていることも忘れてはならないので、その概略について触れておこう。同潤会は 内務省社会局の外郭団体として、1924年(大正13年)に関東大震災で寄せられた義援 金を契機として設立された。当初の目的は衛生状態の悪い住宅密集地のスラムクリア ランスであった。建築部門は当時東京帝国大学教授であった内田祥三、佐野利器が中 心となった。内田は現東京大学の本郷キャンパスをデザインした人物。佐野は耐震構 造の世界的な先駆者であり、かつ日本における鉄筋コンクリート建築のパイオニアで もある。この2人が中心となって日本の鉄筋コンクリート造の集合住宅の歴史は始ま ったのである。
  代官山アパートメントハウスは中の郷、青山等に続いて昭和2年(1927年)に竣工 し、貸し付けが開始された。所帯用が232戸、独身者用95戸に加え、10戸の店舗が用 意され、貸し付け時の申し込みは9.3倍であったという。また単なる住宅の集まりと してだけでなく、全体が生活の場として機能するように食堂、共同浴場、娯楽室など が設けられたのも新しい試みであった。
  同年にはお茶の水、神田川に架かる聖橋(設計:山田守)が、完成している。また ミース・ファン・デル・ローエやル・コルビュジエ、ヴァルター・グロピウス等、近 代建築をリードした17人の建築家が集い、ドイツのシュトゥットガルト近郊ヴァイセ ンホーフの丘で新しい住宅形式の実験展(ヴァイセンホーフ・ジードルンク)を行な ったのが同年であることも興味深い。
  各住居では、新しい住様式に対する計画学的な試行錯誤が、間取りから内部の仕上 げに至るまで様々に行なわれている。しかし高度経済成長と共に中流階層の生活が豊 かになっていくのにしたがって、必要とされる居住空間も大きくなり、代官山アパー トが居住者に払い下げになって以後現在に至るまで、多くの住居で増築や改装が無秩 序に行なわれることになった。したがって現在残されている代官山アパートは、建設 当初に計画された秩序ある姿ではなく、時代と共に住人の個性やエゴが外部に溢れ出 すことによって形成された、コミュニティの異形の姿であったのである。再開発組合 の人に聞いた話では、付近の住民は代官山アパートがスラム化しているという印象を もっており、それ故に再開発事業は安全で衛生的な環境をつくるための一種のスラム クリアランスなのだということだ。スラムクリアランスを目的として生まれた同潤会 のアパートメントが70年後にクリアランスの対象となってしまったというのは、なん とも皮肉な現実である。

何が保存されるべきか

話を空間に戻そう。代官山という場所でこのアパートメントが惜しまれている理由は 、コミュニティ内部の問題というよりも外部の、いわば東京という都市空間との関わ りの中で考えるべきである。70〜80年代、若い世代の活動の中心が新宿から渋谷に移 行したのに伴って、代官山はショッピング街として発達し、ほぼ同時期に代官山ヒル サイドテラス(設計;槇文彦)が新しい都市型集合住宅として街並みの中心を形成す る。以後、バブル景気と共に次々と商業ビルが建設される中で、緑を鬱蒼と茂らせた 代官山アパートメントは、管理された都市の中の隠れ家的なパティオ(中庭)、いわ ばマイナスの中心として機能するようになるのである。派手な建物の視覚的インパク トや自動車の騒音、アスファルトの輻射熱などを緑の壁が吸収し、その中で人々は安 堵、休息、ヒューマンスケールのコミュニケーションを得ることができた。それ故に この空間は住居の域を超えて、貴重な空間だったのである。 同潤会代官山アパート メントハウスにおいて保存されるべきものは何か。近代建築の格闘の記憶よりもまず 、この都市的な空間装置のシステムであると僕は考える。しかし、偶然にして生み出 されたこの種の空間は解読することはできても、残念ながら現在の建築計画学にこの システムを再現する理論は見あたらない。新しくつくられる施設と、周囲の環境の離 散的な振る舞いが、ある偶然によって再びこの空間を生み出すことを祈るしかない。 都市における〈快適な空間の形式〉を保存するための理論は、同時に〈快適な空間〉 を計画する理論でもあり、それと格闘しなければならないのは他でもない僕たち自身 である。

[つきはし おさむ/建築計画学]

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