原日本・高知の自然流生活館土UPBOTTOMHOMEMAPIWE96

写真 
流通者
坂本 直昭 Naoaki Sakamoto

紙舗直代表。
1984年東京千石に紙の専門店紙舗直を開業。
世界的な紙の発信拠点とする。
新潟県小国町に工場を構える。
取材の窓:1996年7月15日。坂本氏の取材は東京千石の紙舗直のショールームにて。ビルの一室だが、部屋中の壁、天井、床、家具まで無造作に感性豊かに紙が張られている。部屋の空気はコンクリートの下地を感じさせない。坂本氏の出現によって世界の日本紙市場、特に修復用紙が変わったと関係者は言う。最近、工場のある新潟県小国町の紙の美術博物館をプロデュース。坂本氏のもとには若いスタッフが集まる。紙舗直の生き方は鮮烈にロックである。


紙の仕事を始められたきっかけは。

写真版画家の日和崎尊夫とは昔からの付合いで、彼とディラン・トマスの詩画集(緑の導火線)を私が版元で作ったんです。店にある古い印刷機で刷った。それがきっかけで紙を漉く人と知り合いになって、紙の現状を知るようになって。私が買わないともう紙漉きをやめてしまう人が何人かいた。彼らに紙を漉いてくれと言う時には当然全部買うわけですよ。だから私の一番の仕事は紙を買うことです。

写真 紙舗直ショールームにて


何年も漉いてなかった紙となると道具なんかも。

道具もやる気だよね。ある意味では道具なんかどうでもなるの。でもみんな高齢だから、あと5〜10年ですごく様変わりするね。紙漉きの第一段階と第二段階があって、今は第二への境目。私は”和紙”とは言わない。言葉がうそだから。”日本紙”と言う。辞書を引けば和紙の定義がみんな違う。大きな渦巻の状態でぐるぐる回っていて、土佐和紙とか伝統とかの錦の旗のもとだったらやれるという人間が全国にいっぱいいる。和紙は死語だということをどんどん言っていくつもり。


店では紙を番号で呼んでいるんですね。

写真産地名でくくると、きちんとやる人とそうじゃない人の紙の違いは一般の人にはぜんぜん伝わらない。使い道によって、どうしてもこの紙じゃなきゃだめという人がいるから、その人の期待に応えられる紙だから俺もお客さんも買うわけですよ。素人目には同じでも使う人が見ればぜんぜんちがう。日本の手漉き紙はそこに来ていると思う。この人のこの方法だからいいんだ、これじゃなきゃだめなんだというところに。それがわかる人たちが少ないけどいるんですよ。うちにあるのは他にない紙、その人しか漉かない紙。どこにでもある紙は絶対置かない。私も新潟で紙は漉くけど、習った日本のやり方じゃないし、私しか漉けない紙。うちの店では金はないけど、財産は紙だっていつも言うの。


そういう紙漉きさんはどのくらいいるんですか。

全国で20軒くらいの紙漉きさんがいて、高知は特に深い付合いが多い。高知の数軒の人の紙はすごいから。私が高知の血の人間だからじゃない。紙は漉く人よりもものを言うから。紙と漉いてる場所を見たら1秒でわかる。高知の本当の凄さをわかってる高知の人間ていないと思う。


修復用紙の輸出では、評価を得ていますね。

写真量は少ないけど、取引先は300〜500。世界の、紙で修復している人は必ずうちを知っていると言っていい。アメリカで出回っている日本の紙の成分を調べた研究者がいて、そしたらうちの紙は全部原料が100%で、PHもピタリ。よその紙は名前で生漉きとか言っててもパルプやマニラ麻が混じっていたりした。そのおかげで一気にうちの店の紙が広まった。フィラデルフィアの美術館でもその後調べてくれて、紙舗直の紙の優秀さが証明された。紙舗直の紙ここにありと。一度そういうところで評価されると非常に強い。修復用紙は高知の紙が主体です。もちろん高知の紙がすべて良いわけではないが。
写真こういう小さな世界は何でも大きくくくるとダメです。いろんなものが異様にくくられて、大きなうごめきのなかに巻き込まれて行って、昔ながらのやり方でやってる人がいても、外から見ればみんな一緒ですよ。だからうちみたいな店があって、その渦巻よちょっと止まれと。抜け出すものは抜け出せと。うちはもう抜け出している。誰かが分けないとものは見えない。日和崎がそうであったように。紙にひかれるのは、日々教えられるというか、道を開かれる思いですよ。どうして紙にひかれてるかってことを、紙が一日一日、こうだよこうだよって開いてくれてる感じ。最初に紙がいいなあと思ったのは、かけがえのないもの、自分には持ってないものが、紙のなかに見えたから。その時はわからなかったけど、高知の十川泉貨紙が生みの親みたいなもの。今日ある俺はその紙の生まれ変わり、俺はあれの子供だと思ってる。それまでも店を始めるためにけっこうな数の紙を見ていて、99%準備もできてて、あれを知らなくたって商売はできた。ところが紙屋としての芯になるもの、この紙が俺と社会を結ぶ土台になるという紙っぺら一枚がなかった。3月のオープン前になっても、これだったらたいしたもんだと思えるものはなかった。その時に、四万十の流域に愛媛の泉貨紙の流れを汲む紙が漉かれていたらしいと何かで読んだ。2月に高知へ行った。役場で聞いたりして、芝さんという家へ行って、その紙を初めて見た。納屋から折りたたんで縄でしばったのをはたきながら持って来たのを見た。それがまさに俺の出発だね。あの時に俺は誕生したんだね。なぜその紙か、っていうのは難しいよ。もしかしたら俺の血筋のなかに高知が入ってるからかもしれないし、郷愁を感じるのにはいろんな要素があるから。何かの理由があるはずだけど。意識の底にあるのかもしれない。世界を回って、いろいろ考えたけど、そういうものまで乗せるような紙じゃなきゃ満足しなかった。どこへ置いてもこの店は地球の一点、そのためにはそれぐらいの俺の意識が紙に乗らなきゃダメだった。十川泉貨紙っていうのは、じゅうぶん地球の紙なわけ。技術なんかはどうでもいい。その一枚の紙がそういう風に俺に入ってきただけで、じゅうぶんだ。

写真上 ネパールのロクタ紙


写真その紙との出会いは呼ばれたような感じですね。

その紙が今日ある俺を待ってたのよ。ほんとに。俺という人間が出て来るのを20年間ぐらいずうっとそこで。

写真 十川泉貨紙


直さんが始めるのを紙全体が待ってた、と言うと大きくくくりすぎるのかもしれないけど。

日和さんの弟子で版画家の柄澤さんが俺のことを、紙の申し子だと。いずれいつか後を振り返った時に、ああ俺がそういう役目をしたんだなとわかると。これも日和崎がそうだったようにね。

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