輸入されたベルの電話機は、さっそく工部省で通話実験されました。一方、電信局製機所では、この電話機をもとに模造品を作り、明治11年(1878)6月、2台の電話機を完成させました。これが、わが国最初の国産電話機となったのです。西南戦争後、それまで年間40万通から50万通にすぎなかった電報通数は、90万通〜150万通を突破するようになりました。そして、明治22年の大日本帝国憲法が発布されたときには、新聞社がその全文を東京から大阪へ打電して、その日のうちに号外を出しました。さらに「小学生作文五百題」にも登場、第2回勧業博覧会では炭素電話機が出品されるなど、電信・電話への関心はさらに高まっていきました。