"植物的感性" 竹村真一
(文化人類学者・sensorium プロデューサー)

"The Art of "Phyto-therapy"

 "東京と北京と、どちらの方がエコポリスか?"−−こんな問いに大した意味があるわけではない。
 だが少なくとも、ここで比べたいのは緑の「量」ではない。

 考えてみたいのは、植物に対する私たちの"SENSE"−−いわば"緑と人間の関係性"の問題であり、樹木や環境に対する私たち一人ひとりの生命経験の質だ。

人間と植物とのコミュニケーション

 たとえば、東京は世界の大都市のなかでも緑地面積の比較的多い街だろう。高層ビルから眺めれば、皇居をはじめ新宿御苑や明治神宮の森など、いくつものかなり広大な森が高密度都市のなかにポッカリ開いた「ブラックホール」のように(あるいは軽薄なビル群を呑み尽くさんとする菌類の群体のように)這いつくばっているのが見える。原宿表参道のけやきの並木や青山通りのプラタナスなど、街路樹も美しい。

 だが、そうした豊かな緑と"TOKYO"に生きる市民がどれだけ精神的・社会的な関わりを持っているかという点になると、いささか心もとない。黄色くなった銀杏並木に思わず時を忘れる人は多いだろうが、それ以外の時に一年を通じて都会の木々を意識して生きている人は極めて少ないのが現状だろう。

 こうしたことを考える時、ふと北京でかつて遭遇した光景を思い出す。北京は黄砂の砂漠のなかに立つような街で、特に冬などは寒々しい街並に葉の落ちたまばらな木々が散在するだけだ。しかし、そんな数少ない木々の一本一本に向かって、ひたすら「気」を集中して「樹功」(樹林気功)を行なっている人々の姿があった。

 「樹功」は中国の伝統的な気功法のなかでも特に近年リバイバルしつつある功法で、木に向かって立ち、木から気を貰いつつ自分の気を練ってゆく。さらに樹木と対話しながら、自らも樹木となって立つ(樹木に同一化する)感覚を磨いてゆく事で、「人間」としてのありかたを多元化/相対化してゆく−−そんなラディカルな視点まで包含した総合的な感性トレーニングだ。
 また、自分の「気」のタイプに応じて好適な樹種も異なり、自分に合ったパートナー的な"わたしの木"を見つけることも重要なポイントとなる。

 もちろん北京の市民すべてが「樹功」をやっている訳ではないし、こうした幾分特殊な例だけを通じて東京と北京を比較するわけにもいかないが、少なくとも匿名的な都市景観の一部として見向きもされない東京の木々と、一人でも自分をパートナーと認識して「気」を交換しあってくれる("気にかけてくれる")人がいる北京の木々と、どちらが幸せかと問えば、答えは自明だろう。
 また森や街路樹が開発で伐られるとなった時、樹木を看板やビル等と同じようにしか思えない人間とは対照的に、木を自分の兄弟(パートナー)と考えている人なら、我が身を切られるのに近い感覚でその森林破壊を受け止めることになるだろう。

 となれば、緑の「量」は多くても、それらがほとんど人間と生きた関係性を持っていない東京と、絶対量は少なくても緑が人間と密接な関わりをもつ北京と、どちらが真の「エコポリス」なのか?−−といった視点も、もっとあっていいはずだ。

植物に対する文化的"SENSE"

 結局、物理的な「環境保護」以上に重要なのは、こうした「環境経験」の違いに対する感性、植物に対する文化的"SENSE"のリデザインなのだ。

 本当に問われるべきは緑の「質」、そこに生きる個々の人間と環境との「関係」の質なのであって、こうして「気功」というソフトウェア(ライフ・アプリケーション)を通じて「健康」教育と「環境」教育が統合されうるという点にこそ、"保護"する主体と客体といった二元論を超えた"アジア型"のエコロジー/生命文化論の可能性の核心を見ていきたいと思う。

 もとより「気功」以外にも、人類の諸文化はじつに多様なかたちで人間が植物と関わる"SENSE"を研ぎ澄まし、深化させてきた。

 どの文化にも見られる本草学/薬草療法は、(食養やアロマテラピーも含めて)本質的には植物のヴァイブレーションへの感応−−あるいは植物と人間の同調(attunement)という、基本的に「関係論的」な、情報コミュニケーション・レベルの問題を扱うもので、単に化学物質としてある要素を摂取すればよいという粗雑な営みではない。
 だからこそ薬草を体内に直接摂取しなくても、その薬草を身につける(あるいは染料として染めた服を着る)といった事により同様の効果が得られる、或いは「園芸療法」というように、植物を育てる(植物に「奉仕」する)プロセスを通じて、その植物に「治癒」されるといった現象も起こってくる。

 また、こうしたトータルな植物と人間の「関係性」の問題だからこそ、たとえば伝統的な薬草医は決して人間のためだけに際限なく採取することをせず、一部は他の生き物のため、一部はその植物自身のために残しつつ、ほんの一部の「残り物」だけを頂く(たとえば一番勢いの強い葉は植物自身のために取っておく!)といった感性、あるいは植物とつき合う作法といったものも当然の事としてもっていた。

 インドの伝統医学「アーユルヴェーダ」の権威の一人であるバグワン・ダーシュ博士は、こうした問題に関して、かつて私に次のように語ってくれたことがある−−。

 「植物療法(フィトセラピー)とは、単に薬草を治療に用いるといった狭い意味ではなく、人間と植物界が調和的な「関係」を創出してゆくトータルな営み全体のことを指すのであり、それは"セラピー"という言葉が語源的に「治癒」と「奉仕」の双方の意味を持っていたことからも分かる。「奉仕」を通じての「癒し」−−その両側面が一体になった、人間と環境の相乗的なプロセスが"フィトセラピー"だ。」

 これは、ほとんど前記の「樹功」にも通ずる発想だろう。結局、人類文化の培ってきた膨大な植物に関する「経験資源」の核心は、こうしたトータルな植物との「関係性」に対する"SENSE"の深化ということに尽きるのだ。

植物の聲を聴いてみよう

 さて、この植物と人間の「関係」をデザインする−−或いは植物への"SENSE"を深めてゆく−−という視点で考えるとき、いま伝統的な園芸とコンピューターの世界を橋渡しする、面白い試みが始まっている。

 銅金裕司氏が開発した「プラントロン」という奇妙なシステムは、植物の葉に電極を取りつけて、脳波測定の要領でその電位差を視覚化/音声信号化するだけのものなのだが、これが面白いほどに植物の環境に対する反応をモニターして見せる。
 それは基本的には「植物の声」を聞きとる(視る)装置なのだが、そこで聞かされるのは、正確に言えば「植物とそこにいる人間(たとえば"あなた"!)との関係性」の表現なのだ。
 その意味で、この装置は植物というメディアを介した「人間」の鏡であり、植物と人間が潜在的なコミュニケーションを通じて創出する「場」のモニタリング装置であり、人間が植物と対話する"SENSE"を自己言及的に深化してゆくための謎めいたツールともなりうるのだ。


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