広島は昔から野球熱の盛んな土地柄。これは現在でも同じで、戦前、戦後を通じて中等
野球(今の高校野球の前身)、高校野球の全国大会でも優勝回数は多い。夏の選手権大会
で7回、春の選抜大会でも4回、広島の高校が優勝しています。
原爆を受けた廃虚の中、1950年に日本のプロ野球が2リーグに分裂することになり、
広島にもプロ野球チームを作ろうと言う広島市民、県民たちの声が盛り上がり、その前年
1949年に「市民球場」として誕生しました。
当初は、県、市が資金を出しあって、そして広島の財界の人たちも出資してスタートし
たが、チームは弱く、赤字経営が続きました。しかし、「カープをつぶすな」という広島
の財界の中心人物だった現在の松田耕平オーナーの実父、松田恒次氏(まつだ つねじ=
当時、東洋工業社長=現在のマツダ)が呼びかけ広島市民球場を1957年に建設し、広
島市に寄付。そしてカープの育成に努めました。
それでも球団経営は苦しくチームも弱かったが、現在の松田オーナーが球団の経営を引
き受けてから、強くなってきました。その一番の理由は、選手はチームが育てていくとい
う方針で12球団にさきがけて、選手の向上をはかるためアメリカ教育リーグに1970
年初参加(1990年まで続いたが、91年からは国内で黒潮リーグに参加)。またトレー
ニング機材を揃えた二軍合宿所、屋内練習場(広島県佐伯郡大野町)といった施設を設け
たからです。
従来、外国人選手の獲得は、米大リーグ出身の選手に頼り、日米両国の野球界に摩擦を
招く原因になったりしていましたが、カープ球団は、独自の立場から中南米とりわけドミ
ニカ共和国には資質に恵まれた若者が多いことに着目。同国の政府、スポーツ関係者らの
協力も受けて、サンペドロ・デ・マコリス市近郊に「広島東洋カープ野球アカデミー」を、
1990年11月に開校。現在はドミニカ共和国のサマーリーグに参加できるほどのアカ
デミーに成長しております。選手の発掘、育成を通じて両国の友好親善の一翼を担うなど、
米国のプロ野球界はもとより、日本プロ野球界にも注目を集めています。
また国内に於いても、1993年3月4日、山口県玖珂郡由宇町字稗田に二軍公式戦本
拠地球場として「広島東洋カープ由宇練習場」が竣工し、若手選手の育成に力を入れてお
ります。
広島市民球場も改築を重ね、収容人員3万2000人、2階スタンドと大型ビジョンを
持つ球場になっています。
親会社を持たない唯一のカープ球団は、都市周辺の人口を集めても、やっと110万人
の地方都市ながら、上記のような企業努力を続けて、過去セ・リーグでは6度も優勝、日
本一に3回もなるまでの常勝チームになりました。
カープ球団は選手の育成に力を入れており、健康管理は慶大医学部のスタッフに依頼し
て、毎シーズン体力、健康面のチェックをしています。シーズンが終わると大分県湯布院
の温泉で、休養をとらせるなど選手の健康に配慮。こうした環境の中でカープ選手はたく
ましく育っております。
|
 |