明治10年前後といえば、まだ政府の力も確立されていない頃。廃刀令、四民平等などが施行され、その地位を失いつつあった士族、旧来の年貢よりも高い税金に苦しむ農民が各地で反乱事件を起こしていた頃でもありました。そんなときに目の敵にされたのが、文明の象徴でもあった電信局でした。明治9年(1876)、熊本の神風連の乱では乱徒が電信局に乱入。このとき、熊本鎮台司令長官の種田政明少将に連れられて来ていた芸者小勝が東京の実家に打った「ダンナハイケナイワタシハテキズ」の電文は、その表現の的確さ、簡潔さが“納言・式部の調べあり”と賞賛され、都々逸として大流行したといわれています。