モールス印字電信機の操作は熟練を要するものでした。この年(1871)の10月には、その養成機関として、また、外国技術への依存からの一日も早い自立を目指すために、修技教場が工部省電信寮内に設けられ、電信業務に従事する人間を育成していきました。中等以上の教育がいきわたらない流動的な社会に、欧米流の学問や技術を学んで立身出世したいという若者にとって、電信修技場は魅力的な機関であり優秀な生徒が集まったといわれています。その中には幸田露伴の名前も残されています。