大正9年(1920)電信の拡張計画の実施によって印刷電信機採用の機運が高まってきました。大正11年以降各種の方式について実験が試みられ、また和文印刷電信機の試作・研究・実験等も行なわれましたが、ついにアメリカ製の和文印刷電信機が完成し、昭和2年(1927)6月から東京・大阪間を始め主要回線が印刷化されるようになりました。国産の印刷電信機は、昭和12年に登場し、東京・大阪間の主要回線は国産機に置き替えられるようになりました。