スキンヘッドのお笑い大王 陳凧斯


文:水民潤子


 その昔はカオス(混沌)の海の中で、誰とでも心を通わせることが出来たと言うのに、神様の意地悪で、それぞれの感情を通じなくされてしまった人間たち。しかし、神様はたった一つだけ、人間から奪うことの出来なかった感情があった。それが「笑い」。

 人間のいるところ、どこにでも笑いはある。怒りも、すべての人間に共通する感情だが、それが発する時は、私とあなたの距離はそんどん離れていってしまう。でも、笑いは、お互いの心を和ませる。お互いの距離を近づけていく。私たちが一斉に笑うとき、世界は一つになっていく。

 どれだけ笑いの文化が浸透しているかで、その国の人間の顔が見えてくる。ナマの心が見えてくる。では、中国は?私たちは、中国を思い浮かべるとき、その雄大な歴史は思い浮かべることが出来ても、人間の顔まではなかなか思い浮かべることが出来ないはずだ。

 ここ、サイバーチャイナタウンには、いつも人を笑わせることに夢中になっている気のいいオジサンが住んでいる。喜劇俳優、コメディアン、映画監督と、さまざまな肩書きを持つマルチタレント、陳凧斯(チェン・ペイスー)だ。人を笑わせ続けているうちにいつしかお金持ちになってしまって、最近ではキャデラックを真似た中国の国産最高級車「紅旗」のラグジュアリーな後部座席に腰掛けているのだけれど、そこでも必死になってギャグを考えてるっていう、実にイカしたオジサンだ。では、早速、陳さんに中国人の笑いのあれこれを聞いてみよう。

 『中国人の笑いが解らないって?僕はむしろ、日本のほうに喜劇がないと思っていたよ!』
 『最近では、BSとかCATVなんかが普及したおかげで、北京でも日本のテレビドラマやバラエティショーが観れるようになってね。これがけっこう面白いんだ。僕は、今まで、日本人というのは、もっと、こう、おしとやかな国民じゃないかと思っていたんだな。しかし、ほんとうは、日本人のほうが笑いや人情に敏感だったんだ。』
 『中国はまだまだ、喜劇の面でも、日本より遅れていると思った。でも、中国の喜劇やギャグが発展しなかったのは、別に僕たちが笑いに鈍感だったからじゃない。現在に至る歴史の変革が激しかったり、抑圧に苦しんだりして、僕たちが本来持っている笑いの精神を忘れてしまったからなんだ。日本人が可笑しいと感じるものは、中国人でも十分笑える。両国民の笑いのセンスは、きっと一緒なんだ。中国の人々は、最近やっと生活にゆとりが出来たところ。これから、僕がみんなを心ゆくまで笑わせてあげるさ。』
 陳凧斯は、ベテランの喜劇俳優である陳強の息子として生まれ、笑いの英才教育を施されてきた。だが、映画で地道に活動してきた父の生き様に反して、息子は、一発ギャグで勝負するTVタレントからスタートして、メディアを問わないマルチタレントとして活躍するようになる。そのあたり、父子の確執でもあったのだろうか?
 『旧来の監督に使われる俳優に過ぎなかった親父は、喜劇俳優とは言わないんじゃないかな。いや、僕がデビューするまで、中国には喜劇の概念がなかったと言ってもいい。それまでの喜劇と呼ばれるものは、芸術性が主で、喜劇性は添え物に過ぎなかった。僕がやろうとしたことは、その喜劇性を主役に据えて、観客が笑う以外の目的はなにもないという、純粋な意味での喜劇だよ。そんな映画は、いままでまったくなかった。』
まったくなかった!?どうして?
 『解放後の中国では、笑いは、重要な要素じゃなかったんだ。』
 『僕が、最初に一発ギャグをやったのは1984年。中国中央テレビ局でオンエアされた春節晩会(旧正月用のバラエティショー)だった。僕は、この頃、テーマも何もない、庶民の日常生活の一コマを切り取って、それをデフォルメして笑わせるというギャグをやりたくて仕様がなかったんだ。
僕がラーメンを食べるパフォーマンスだけで笑わせる。こんなものは、日本では当り前のことだろうし、中国でも今は何でもないことなんだが、当時はまだ誰もやったことがないし、相当勇気の要ることだったんだよ。番組のプロデューサーはすごくナーバスになってしまって、事前に完全な形のリハーサルを見せることを命令し、本番で少しでも改変することがあったら、僕を芸能界にいられなくしてやると言った。ところが、相手役がどうしても必要になってね、会場である体育賓館のスタッフを急遽連れてきてやったんだよ。これがバカウケでね。プロデューサーは頭を抱えていたけど、観客は僕を支持
 このギャグは、中国の現代事件史の中で、ひときわ美しく輝く伝説として、いまも語り継がれている。陳凧斯がテレビカメラに向かってしゃがみこみ、架空のラーメンをすすりこんでみせたこの瞬間こそ、中国にパフォーマンスギャグとスラップスティックが誕生した瞬間だったのだ。

 陳凧斯の行くところ、笑いとハプニングが絶えない。去年(95年)も、上海映画祭の外人記者向けプレス試写会において、現代人の知的苦悩を描いて前評判の高い中国作品を上映しようとしたところ、フィルムの到着が遅れてしまい、時間稼ぎにと陳凧斯の短編を上映したところ、こっちのほうが高く評価されてしまったという椿事もあった。

 そんな自己の性格を象徴するかのように、彼の頭は見事なスキンヘッドだ。スキンヘッドというとパンクなイメージがあるが……

 『髪の毛の手入れという無駄な労力を使う必要がなくなって、その労力をギャグに使うことが出来るのがいい。それに、髪の毛がないと頭がいつもひらめいているような気がするんだ。』
ほらね、やっぱりパンクだ!
 『喜劇というのは、実体もないのに人に隷属を強いる下らない制度とか、根拠のない権威主義を、メチャクチャに破壊して、観客に解放感を与えるものだと、僕は思っている。そのためには、僕はとことん過激になれるんだ。』
 壁に水道管を取り付けようとして、トンネルを開通してしまう男。どうせ穴を開けるなら極端に大きな穴を開けなければ気が済まないのが陳凧斯の持ち味だ。中国人にとっては苦い思い出である日中戦争を描けば、日本軍の将軍に日本語の「バカヤロー」だけでラップを歌わせ、しかも、日本軍だけが笑い物になっては申し訳ないとばかり、自らも裏切り者の中国人を実に憎たらしく演じて、自らの肉体に中国人の怒りの刃を貫かせてしまう。中国人にとっての心の故郷である農村にカメラを向ければ、いい加減な軍楽隊の演奏で、誰でもが陥りやすいノスタルジーを、草木一本残さないまでに粉砕する。この極端な破壊指向は、やっぱりパンク以外の何者でもない。
 『80年代の後半から、シチュエーションコメディを目指すようになって、必然的に映画の世界に興味が移った。それまでの中国映画には本当の意味での喜劇映画がなかったから、僕がやってやろうと思ったんだ。93年に監督と主演を兼ねて撮った「孝子賢孫伺候着(よい子ちゃん、ご機嫌いかが)」は、農村の土葬の因習と中国政府が推奨する火葬の制度を同時に笑いとばしたものなんだが、全国的に大ヒットしてね。この作品は事実上、中国映画史上初の純粋喜劇映画ということになっている。』
 『僕は、中国が長い苦しい歴史の間に身につけてきた垢を洗い落として、本来的に持っていた人間らしい感情を蘇らせようとしているんだ。たとえば、今年の夏に撮影する新作では、マッチョな男性性の復権を叫ぶつもりでいる。いまの中国人男性はちょっと軟弱すぎるからね。僕は、すべてを笑いとばすことで、この国の人間を素晴しい方向に変えていきたいんだ。』
 スキンヘッドのお笑い大王、陳凧斯は、そう言い残すと、黒いボディの高級車「紅旗」に乗り込んで、北京の街へと消えて行った。呆然と見送る私の手に、いつの間にか、古代文字で書かれた解読不能の手紙が握られていた。専門家によると次のような意味の言葉なのだという。

『眠るな!目を見開いて俺のギャグを見ろ!次の破壊目標は世界だ!!』



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