は現在も制作現場として活動中の場所です。

     京都における撮影所の歴史は1910(明治42)年、
    横田商会が二条城の南西に、日本で二番目の撮影所を設立したことに始まる。
    通称「二条城撮影所」、それは300坪の土地に
    「二間から四間ぐらいの板敷きの舞台を作り、その上へ
    開閉できるようにした天幕を張り、
    真昼間の天然光線の下で撮影した」という簡単なもので、
    背景はすべて書き割りであったという。
    その後、法華堂撮影所、日活大将軍撮影所、牧野省三による
    等持院撮影所と移転、建設さえていった。
    そして、昭和の初期には阪妻プロ太秦撮影所を皮切りに京都の西、
    嵐山にほど近い太秦に撮影所が集中、1935(昭和10)年ごろには
    同時に8つの撮影所がひしめきあった。
    まさに「日本のハリウッド」と唄われた時期である。
    しかし、昭和30年代のピークが過ぎると、撮影所も徐々に統合閉鎖され、
    現在は東映京都撮影所と京都映画撮影 
    所の2ヵ所を残すのみとなっている。                         

     
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