中山ダイスケ |
CAR OF DESIRE 1995 wood, steel, FRP, wax car: 430 x 180 x 120cm |
STRINGS 1993 bows and arrows (30 pieces) 270 x 330 x 320cm |
[デリケイト]以前の話 他者とコミュニケイトすることなく生きてゆけたら、どんなに楽だろうと思うことがときどきある。また逆に、ほんとうにこの世に自分一人しか存在しない状態になったとしたら、はたして自分は生きていられるだろうかと恐怖を抱くこともある。誰にも会わず、誰とも話さず、誰の手も借りず、また貸さず、そんな世界のなかで、いったいどうやって自分の存在を確認すればよいのだろう。
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DELUXE LUNCH-5 1994 wood, feather, plastic, steel 45 x 40 x 50cm |
THORNY ROOM 1992 wood, feather, plastic, steel each 30 x 90 cm ARTRAPS 1994 |
以前、何かのインタビューで「僕は無人島にたった一人でいたとしたら、アーティストにはなってはいないと思います。もしもそこに一人の美女でも流れ着いたとしたら、きっとその時から何かを表現し始めるでしょう」と答えたことがある。そのときはとっさにそう答えたのだが、今、この〈デリケイト〉という作品と関わりながら、その発言を何度も頭のなかで思い返している。 無人島で自分がアーティストになれないのは、自分が生存していくための作業、つまり呼吸を続けていくための作業が毎日山積みで、作品をつくっている暇がないからというわけではけっしてない。生きていく作業と作品を制作するということとは、本質的には同じだと僕は信じているのだが、ただそこにあきらかに欠如しているのは、自分が生きていることをあらためて確認する愉しみや、それを肯定しながら否定したり、否定しながら肯定したり、何かと比べたり、何かに例えたりする、いわゆる余裕にあたる部分である。とくに僕という作家は、この余裕という部分にこれまでの作品の意味の多くを依存してきた。言い換えれば余裕のなかから生まれた作家であるとも言える。僕が武器をつくり、それを美術作品という役割にあてはめることができるのも、僕を取り巻く社会が、その武器を本来の意味での武器というツールとして必要としていないからであり、僕の仕事はこの余裕という部分を共有する人々によってはじめて作品として認識され、解釈され、機能することができる。武器自体が他者の存在しない世界では機能しないのと同じように、結局のところ、僕も他者を必要としているのである。
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死への危機感があっても、ロビンソン・クルーソーが暦や日記を記し続けたのも、彼が他者だらけの世界から流れ着いたからで、いくらデリケイトな社会に生きているにしても、美女がいいとか言っていられるだけ、彼よりはましかもしれない。
「DELICATE展」パンフレットより |
HURTS-III 1995 steel, oil, wire |
今後の予定 | |
タイトル | Discord. Sabotage of Realities |
会 期 | 1996年11月27日(水)〜1997年1月19日(日) |
場 所 | ハンブルク(ドイツ) |
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