ときおり、「結婚しました」という葉書がくる。女性は、ほとんどの場合、姓が変わってしまうから、住所録の変更がちょっと面倒だ。旧姓も残しておかないと、誰だかわからなくなってしまう。仕事で日頃、よく会っている人の姓が変わると、しばらくは混乱する。本人も慣れていないから、余計、話がややこしくなる。姓が変わるというのは、本人にとっても、周囲にとっても、けっこう大変なことなのだ。
ごくまれなことではあるが、音楽の場合にも、これに似たことが起こる。もちろん、大作曲家が結婚して姓が変わる、などということではない。ある特定の作品の作曲者が変わってしまう、ということ。ほとんどは、本当の作曲者が明らかになる、というケースだ。
有名な例が、ハイドンの弦楽四重奏曲作品3-5。この第2楽章は「セレナーデ」として有名だが、この曲を含む作品3の6曲は、R.ホフシュテッターという人(カトリック司祭)の作であることが1962年に判明したそうだ。1767年に出版するとき、出版社が、有名な作曲家の作、とした方が売れるということで、勝手にハイドンの名を冠してしまったというのだから、ひどい話である(こういうことは当時はよく行われたらしい)。もっとも、「ホフシュテッター作」で出版したら誰も買わずに、忘れられてしまったかもしれない。まあ、いずれにせよ、この例は、あまり重大な問題を引き起こさない。作品3は、ハイドンの評価を覆すような「代表作」というわけではないからだ。
ところがCD『おお美しきバラよ/15世紀イギリス世俗歌曲集』(L'Oiseau-Lyre POCL-3123)は、ちょっと困った問題を引き起す。このCDでは、従来、15世紀イギリスの作曲家、J.ダンスタブル(1453没)の作とされてきた《おお美しきバラよ O rosa bella》という歌曲が、ジョン・ベディンガムJohn Bedyngham(1459あるいは1460年没)の作とされている。そして、この曲の作者が変わる、というのは大問題なのだ。なぜかという、あまり知られていない作曲家とはいえ、ダンスタブルは15世紀前半のイギリスを代表する作曲家とみなされており、そして、この《おお美しきバラよ》は、彼の代表作とされてきたからである。
すでに1980年刊のイギリスの音楽事典 New Grove's Dictionary of Music and Musiciansのダンスタブルやベディンガムの項ではこのことに言及されているので、研究家の間では知られていたのだろうが、それでも明確に「ベディンガム作」と銘打ったCDが出てくるというのは、知人の姓が変わってしまうのと同じで、少なからぬ混乱を引き起こすことになるだろう。現在、出回っている音楽史関係の本の中には、この曲を「ダンスタブル作」としているものも存在するからだ。
このケースとは逆に、未熟な作品が、大作曲家の作品リストから取り除かれることもある。かつてバッハの作とされていた《8曲の小プレリュードとフーガ》(BWV553-560)は、現在ではおそらくバッハの作ではない、とみなされているが、かといって、正しい作曲者がわかったわけでもなく、完全に宙に浮いてしまった。この曲は、新バッハ全集では外されてしまったので、現在アクセスできる楽譜は、旧全集、ケラー編とデュプレ編のバッハ・オルガン作品全集ぐらいである。大曲ではないので、録音されることもほとんどない。
しかし、これはちょっと疑問だ。なるほど、この曲はバッハの作ではないかもしれないが、バッハのオルガン作品と一緒に伝えられてきたものだ。これを、「真正」のバッハの作ではないからといって、音楽史の上から消し去ってしまってよいものだろうか。消すのはいつでもできる。「偽作」としてでもいいから、バッハの作品と一緒に受け継いだものは、そのまま後世に伝えてもよいように思える。あまりに杓子定規に「真正」にこだわっていると、そのうち、《トッカータとフーガ 二短調BWV565》も「原曲はヴァイオリン曲」ということになったり、さらには「偽作」つまり、バッハの作ではない、ということになってしまって、やはりバッハの作品目録から外さなければならなくなるかもしれない[注1]。
いずれにせよ、作曲家と作品の結び付きは、それほど堅固なものではないし、ひとたび完成してしまったら、音楽は独り歩きを始める。以前にも述べたように、音楽の価値を作曲家と結びつけて論じることには限界がある。
作曲者と作品の結び付きにこだわって、「真作か偽作か?」といった信憑性の問題を、厳密に検討することには、学術的にはそれなりの意味があるだろう。しかし、ここである種の「純粋主義」から「偽作は目録から除外する」ということが起こると、私たちが聴くことのできる音楽の遺産を葬り去ることになりかねない[注2]。
《おお美しきバラよ》にせよ、《8曲の…》にせよ、作曲者が誰であるか、という問題は、音楽の本質には無関係だ。音楽ファンの会話で、よく「この作曲家が好きだ」という言い回しが聞かれる。ごく日常的にはこれで問題はないけれども、筆者はできるだけ「この曲が好きだ」というようにしている。
[注2]最近、ローマ・カトリック教会は《死者ミサ(レクイエム)》の続唱《怒りの日 Dies irae》があまりに地獄の恐ろしさを強調し過ぎているとの理由から、正規の典礼から取り除いてしまった。そのために、新たにソレムが録音したグレゴリオ聖歌《死者ミサ》のCDには、もうこの続唱は収録されていない。これもまた、音楽的遺産を葬り去ることに通じるように思える。まさか「カトリック教会ではモーツァルトの《レクイエム》の《怒りの日》も禁止」などということにはならないだろうが。