bogomil's CD collection 15
リゲティ:《アトモスフェール》
聴覚を鋭敏に
Ligeti: "Atmospheres"

 今年の夏も、多くの人が国内旅行、海外旅行に出かけたようだ。そして、おそらくその大部分は、いわゆる観光旅行だったのだろう。「観光」とは、景色を見る、ということ。英語ではsight seeingだ。食べたり、飲んだりも旅行の楽しみのうちだし、最近では買い物も、旅行の楽しみのひとつになってきているようだが、それでも、ほとんどの人は、何かを「見に行く」のである。
 では、目の見えない人は、どうするのだろう。「観光」とは無縁なのだろうか。そんなことはない。目の見えない人は、確かに景色を見ることはできない。しかしその場所の空気感、音、におい、風などを、目の見える人よりも、はるかに敏感に、細やかな感覚で感じるという。知人のT氏は目が見えないが、彼と話していると、視覚以外の感覚が非常に研ぎすまされていること、そして、周囲の状況を、目の見える人とは違った方法で認識していることに驚かされる。
 たとえば、学生食堂の話。彼の行っていた大学には、2つ学生食堂があるが、彼にいわせると、ひとつは「音の響きが不快」なのだそうだ。特に音楽を流しているわけではなく、人々の話し声や、食器の音、椅子の音などが、不快に反響して聴こえるらしい。この話を聴いてからしばらくのあいだ、行く先々で、音に集中してみた。確かに、違う。概して、都会の食堂、レストランはやかましいが、部屋の大きさ、天井の高さ、床の材質によって、響きが変わるし、足音も変わって聴こえる。そして、くつろげる店、というのは、やはり、あまり音が反響しないところであることもわかった。しかしこういったことは、以前は、ほとんど気にしていなかったことである。
 戸外の音についても、注意深く聴くと、いろいろなことがわかる。たとえば、雪の降る日は、町が静かになったような気がしないだろうか。人々が外に出なくなる、ということもあるだろうが、なんとなく、周囲の音が違って聴こえる。このことについても、T氏は、おもしろい話をしてくれた。彼は、雪の積もった道を歩くのが苦手だという。目の見えない人は、普段、杖を使って歩くが、あの杖は、ただ単に障害物や道の段差を探っているだけではなく、杖でたたく音の響き具合から、周囲のおおよその広がりもわかるのだそうだ。それで、雪が積もると、いつも歩いている道でも、音の響きが変わってしまい、ありもしない場所に、塀や建物が立っているように聴こえることがあり、困惑するのだそうだ。
 こういった感覚は、おそらく、本来人間なら誰でもが持っているのだろうが、どうも最近は視覚が優先されて、聴覚能力が退化しつつあるような気がする。そして、視覚と聴覚のバランスが極端に視覚側に傾くと、弊害も起こってくる。たとえばテレビのコマーシャル。素敵な若い女性あるいは男性がでてきて、微笑みながら商品について語る。つい、心が動いてしまうが、目の見えない人は、違った捉え方をする。話している声だけ聴くと、誠実さが感じられず、その人が、本心から語っているのではないことがわかるのだそうだ。早い話が、心にもない「嘘」を言っていることがわかるのである。なまじ目が見えると、外見にコロリとだまされてしまうものらしい。
 この法則を適用すると、電話で話したときに好感の持てる人は、人柄のいい人、といえるかもしれない。しかし、これを逆手にとって、より真実味のある作り声でだます、というテクニックもあるから、あまりあてにはならない。
 いずれにせよ、私たちは、注意深く見ると同時に、注意深く聴かなければならない。特に、視覚優先のメディアの洪水の中では、聴覚を鋭敏にしなければならないだろう。そのためには、まず自分自身の周囲を聴覚的にクリーンにしておく必要がある。自分自身が無神経な音を出してはならないし、周囲の無神経な音を少しでも減らすように努力するべきだ。ついてながら付言しておくと、「周囲の無神経な音」には、音楽も含まれることをお忘れなく。ある人にとっては快適な「音楽」であっても、それを聴こうと思わない人にとっては騒音、雑音以外の何物でもないのである。
 今回は聴覚を鋭敏にするために役立つのではないか、と思われる、一風変わった現代音楽、G.リゲティの《アトモスフェール》を紹介しよう*。この曲、最初から最後まで、微妙に音の塊=クラスターが変化していくオーケストラ作品で、タイトルは「雰囲気」、「大気」といった意味と思われる。いずれも目に見えるものではなく、つかみどころがなく、しかも微妙だ。よく考えてみれば、音楽も、似たようなもので、私たちを取り巻く雰囲気といってよいだろう。この曲、最初は漠としてわけがわからないが、聴覚を最大限、研ぎすまして聴いていくと、少しづつ、響きの内部のデリケートな音の変化がわかるようになる。聴くごとに、どこか違った響きに感じられる不思議な曲だ。
*Discography:
Wien Modern-Ligeti/ Nono/ Boulez/Rihm. Gramophon 429 260-2
92/07 rev. 95/12
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