bogomil's CD collection 7
キュイ:25の前奏曲
Cui: 25 preludes

 「教育」という言葉は、そのまま読めば「教え、育てる」となる。この場合の主語は教師や親で、目的語は児童や生徒だ。つまり、教育という言葉は、教える側を主語とする言葉であり、したがって、教えられる側は「教育を受ける」という、受け身の立場となる。筆者は、このような意味での「教育」という言葉には疑問を感じる。ともすれば、「学ぶ」という側面、つまり子供や生徒、学生の能動的な側面が軽んじられるからだ。
 親や教師の側が、子供や生徒の「学ぶべきこと」を決定し、それを教えるとき、子供や生徒の自発的に学ぶ意欲はしばしば制限され、あるいは否定されてしまう。そして、大人や教師に「教わること」、教える側が決めた「学ぶべきこと」を無条件に受け入れる子供や生徒だけが「よい子」、「よい生徒」と評価される。
 しかし、この種の「よい子」は、指示されたことは上手にこなすが、自分から問題を発見して解決する、ということのできない人間に成長しがちだ。しばしば、小学校や中学校時代の優等生が大人になってつまらない人間になり、ガキ大将や腕白坊主が大物になる、といわれるのも、このあたりに原因がありそうだ。
 教育についての「受け身」の観念は根が深い。音楽の世界でもそうだ。「いい先生につきたい」、あるいは「名門音大に行きたい」という若者はかなり多い。この背景には、「いい先生に教われば、自分が向上する」あるいは「名門音大に行けば、いい先生に教われるし、周囲の優秀な学生から刺激を受けて自分が向上する」といった受け身の発想がある。日本の社会全般が「○○大卒」とか「○○教授に師事」というレッテルに弱いのだが、これもその根底には教育を受け身にとらえる発想があるからではないだろうか。
 しかし、考えてもみてほしい。チンパンジーがパリのコンセルヴァトワールに入学したら、名ピアニストになるだろうか。これは乱暴なたとえだとしても、パリのコンセルヴァトワールで学び、すぐれたピアニストになるためには、なによりもまず本人のピアノに対する熱意と、学ぶ意思が必要だ。そして(ここから先は異論もあるだろうけれども)、本人に熱意と意思があれば、現実にはどこで勉強しようが、誰に師事しようが、大差はない、と筆者は考えている。
 著名な音楽学校や音楽大学を出た優秀な演奏家や作曲家は多い。しかし、彼らは、他の道を歩んだとしても、おそらく大成したかもしれない。逆に、なまじ音楽学校に行ったがために、才能をスポイルされた演奏家や作曲家(になれなかった人々)も多いのではないか。古今の名演奏家やすぐれた作曲家の中には、ほとんど独学という例や、30才過ぎてから学び始めた、という例も少なからず存在する。
 若い作曲の学生が、いつまでも先生のいうことばかりきいていたら、先生に叱られないことだけを考えて作曲したら、どうなるだろうか。おそらく、作曲家としては大成しないだろう。もし若いピアノの学生が、いつまでも先生の指示に忠実に従うことだけに専心したとしたら、おそらくピアニストとしては大成しないだろう。ある時点で自分のスタイルを確立しなければ、いつまでたっても「○○の亜流」にとどまることだろう。
 クラシックの世界では、「アマチュア」や、正規の音楽教育を受けていない作曲家や演奏家は概して評価が低い。たとえばロシアのキュイ。彼は、リムスキー=コルサコフ、ボロディン、ムソルグスキー、バラキレフとともにロシア5人組を構成しているものの、知名度や評価は他の4人に比べて格段に低い。そもそも、この5人の中で正規の音楽教育を受けたのはバラキレフだけで、他のメンバーは程度の差こそあれ、アマチュアとみなされている。で、「アマチュアはプロに劣る」という単純な発想から、彼らにも「二流」という烙印が押されがちだ。
 ただ、キュイ以外の4人は、ロシア的な、民族的な色彩の強い作品を書いたので、そこそこ有名になった。これに対して、フランス人の父と、リトアニア人の母との間に生まれたキュイは帝制ロシアの軍人だったこともあって、後のソヴィエトの民族的、政治的、思想的状況もからんで、不当に軽視されてきたきらいがある。
 ここで、彼の《25の前奏曲》Op.64*を聴いて.みよう。全体として、いわゆるロシア風の響きはほとんど聴かれない。様式的には19世紀後半の西ヨーロッパ風の音楽といってよいだろう。そのために「ショパンやシューマンの亜流」という批判もあるし、「サロン風の音楽の域を脱していない」という評価もみられる。
 しかし、筆者は「サロン風」の音楽も存在価値があると思うし、キュイの様式がショパンやシューマンに似ているとしても、「亜流」といった否定的な評価を下す気にはならない。
 ソヴィエト連邦の崩壊によって、今後、これまで等閑視されてきたロシアの作曲家にも目が向けられるようになると思われる。もちろん、ロシアの作曲家といってもさまざま。先入観なく、公正な評価がなされるべきだが、キュイのピアノ音楽はもっと聴かれてもよいように思える。
 わが国では、未だに欧米の特定の民族的立場や政治的・思想的立場からなされた作曲家の評価をそのまま無批判に繰り返すような評論や研究が散見される。これを「サル真似」文化といったら、きっとサルが怒ることだろう。
*Discography:
Cui: 25 Preludes, Op.64. (MARCO POLO 8.223496)
It's nice to eat a good hunk of beef
but you want a light dessert, too.
Arthur Fiedler
94/07 rev.95/09
[back to bcc Home]