bogomil's CD collection 4
C.P.E.バッハ:ソナタとソナチネ集
二世ブームを考える
C.P.E.Bach: Sonatas and Sonatinas

 ここ数年来、スポーツ界や芸能界で「二世ブーム」が目につくようになった。野球ではN父子、相撲では二代目のW、Tが典型的。俳優、タレント、歌手では枚挙にいとまがない。確かに二世は有利だ。子供の頃から、その分野の環境で育ち、早期教育を、しかも質の高い教育を受けることができる。さらに親の知名度が高ければ、「○○の子」というだけで、皆が一目置くのである。いいことずくめのようだが、しかし、今挙げた点は、そっくりそのままマイナス要因にもなり得る。
 まず、子供の頃から特定の環境で育つ、ということは、本人の意志に関係なく進む道が決められてしまう、ということ。これは、成長してから、本人が自立していく過程で、大きな葛藤を引き起こしかねない。
 知名度も問題だ。いつまでたっても「○○の子」としてしか見られないとすれば、本人はどう感じるだろう。血のにじむような努力をして、いい結果を出しても、「やはり血筋がいいからねえ」と簡単に片付けられる。結果が悪ければ「才能はあるのに、努力が足りない」と評される。さらにはフロイト的な問題もある。父親と息子であれば深層心理的には「ライバル」で、いわゆるエディプス葛藤が生じる。父親が偉大であればあるほど、息子は心の奥で父親を憎む。だから前述のNやW、Tを見ていると、ちょっと気の毒にさえ思えてくる。
 さて、こういった二世ブームの背景には「知能や才能は遺伝する」という考え方が見え隠れする。しかし、顔つきや体型が遺伝することと、才能が遺伝する、ということは必ずしも同列に扱うことはできないだろう。後天的な要因があまりにも多く、純粋に遺伝的な要素だけを取り出すことはむづかしいように思える。本当に、知能や才能は遺伝するのだろうか。
 心理学の分野では、しばしば一卵性双生児を対象にして、遺伝に関する調査研究が行われるという。一卵性双生児は遺伝的にはまったく同じとされているから、もし知能や才能が遺伝的に決定されるならば、一卵性双生児の知能や才能は同じになるはずだ。
 ここに、ひとつの興味深い事例がある。イギリスの応用心理学者、シリル・バートは、双子の研究を行った結果、知能の75%は遺伝する、という結論を出した。これは、一見、極めて科学的な結論に思われた。ところが、バートの死後、調査してみると、彼のデータがほとんど捏造されたものであることが判明した。彼は、調査結果にもとづいて結論を出したのではなく、自分の説に都合のいい調査結果をデッチ上げたのである(W.ブロード、N.ウェード著:『背信の科学者たち』、化学同人刊より)。
 なぜバートは、実験データを捏造したのか。ここでは、「知能は遺伝する」という説が純粋に科学的事実かどうかが問題なのではなく、それが特定の思想的立場を強化するために利用できる、という点が問題なのだ。たとえば、この説は民族差別に格好の口実を与える。ある民族が「劣等民族」と評価されると、その民族はいくら努力してもダメ、ということになる。またこの説は同一民族内では、社会階級や世襲的身分制度を正当化する方向に作用する。「知能や才能が遺伝する」という説あるいは思想は、個人の努力の可能性を否定し、人権や自由を抑圧するために都合のよいものにもなり得るのだ。
 クラシックの分野では、才能が遺伝する例として、J.S.バッハ(以下「大バッハ」)の家系が取り上げられることがある。確かに、バッハの家系には音楽家が多い。このため、血筋」の問題が取り沙汰されるわけだが、ここで安易に現在の音楽家に対する「才能ある、独創的芸術家」といったイメージを投影してはならない。当時の音楽家(作曲家)の社会的地位は、貴族や領主の宮廷にあっては料理人などと同格の使用人に過ぎなかった。したがって、大バッハの家系に音楽家が多いのは、必ずしも才能ある音楽家を輩出した、ということではなく、固定された身分制度のために、音楽家という家業が世襲された、という側面が依然として強いといえるのである。ここで、大バッハの息子、カール・フィリップ・エマヌエルの鍵盤作品や交響曲を聴いてみよう。
 エマヌエルの音楽は明らかに古典主義の性格を示すもので、様式的にまったく父親とは隔たっている。音楽的な面で見る限り、エマヌエルは「大バッハの息子」ではなく「ハイドンやモーツァルトの父」といった方が適切だ。大バッハの様式は、当時の水準から見ても保守的であり、古めかしいものだったから、息子たちが父の様式を踏襲しなかったのは、ごく自然のなりゆきだったといえる。
 さて、現在の一般的な知名度からいえば、エマヌエルやクリスティアンは無名の作曲家の部類に属する。そして様式的には彼らの作品は、ハイドンやモーツァルトの影にかくれてしまっている。ただし、ここで現代の基準を適用して作曲家に優劣をつけてはならない。現在では、大バッハは「バロック音楽の最後の巨匠」として評価されている。そして大バッハの息子たちの世代の評価ははるかに低い。これは「盛期古典派」を完成したものと見、大バッハの息子たちやマンハイム楽派などを、その前段階あるいは準備段階とみなしてしまう、という音楽史観に由来する。この意味では、エマヌエルはいささか不当な扱いを受けているといえる。したがって、ここで筆者は彼の作曲家としての「優劣」の判断は保留する。と同時に、現在エマヌエルがどちらかといえば「二流」と評価されていることをもって、「この場合、才能は遺伝していない」という結論を導こうとも思わない。
 しかしまた、仮にエマヌエルがハイドンやモーツァルトに匹敵するような大作曲家だったとしても、そのことをもって「才能が遺伝した」という結論を導くべきではないだろう。エマヌエルが生まれてすぐ肉屋に養子に出され、肉屋を継ぐべく修行したにもかかわらず、あるとき、突如として音楽的才能を発揮した、ということでもない限り、このケースは、後天的な要因、音楽家を父に持ったという環境が音楽的才能に影響を及ぼした例と見ることが充分可能に思える。同様にクープラン一族も、スカルラッティ父子やモーツァルト父子の場合も、安易に「才能が遺伝する例」あるいは「遺伝しない例」とするべきではないだろう。
ちなみに、世襲制が容認されやすい文化的風土の日本でも、将棋の棋士の世界には、まず世襲は見られないとのことである。ゴマ化しのきかないあの高度な記憶力と推論・判断の能力は、あくまで本人の努力によって獲得されるものなのだ。
*Discography:
C.P.E.バッハ:ソナタとソナチネ集(ポリドールPOCL-3022) C.P.E. Bach: 6 Sinfonies, Wq 182 / the Academy of Ancient Music / Hogwood (L'oiseau-Lyre 443 192-2)
94/4 rev.95/08
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