bogomil's CD collection 2
ヴィヴァルディ:《四季》
「四季」にもいろいろあるけれど
Vivaldi: "Le quattro stagioni"

 栗本慎一郎著の『間違いだらけの大学選び[疾風編]』(朝日新聞社刊)は、なかなか興味深い本だ。題だけ見ると、大学受験生や、受験生の父母を対象にしたものに思えるが、栗本氏の意図は、むしろ現在の日本の大学の在り方に対する批判にあるようだ。特に、一般に「名門校」、「一流校」とされている大学が、歯に衣着せぬ筆致で評されている。
 たとえば、私立の名門の某大学は「学生一流、施設三流、教授四流」。思わず、苦笑してしまった。しかし、これは他人ごとではない。栗本氏は、偏差値優先のわが国の大学受験のシステムによって、少なからぬ大学が、その教育と研究の実態に比べて不当に高い評価を得てしまう、という現象を指摘しているが、音楽界にも似たような現象が見られるからだ。
 国際コンクールに入賞しただけで、あたかも「大ピアニスト」であるかのごとく喧伝される若手ピアニスト。どういうツテがあるのか知らないが、やたらにマスコミに登場することで知名度が高まり、あたかも「大歌手」であるかのごとく扱われる女性歌手。大きな声ではいえないが、実力はさておき、プライドだけは一流演奏家並み、というケースもけっこうあり、「プロは偉い」と思い込んでいる純朴な一般人が結構だまされたりする。いずれも、不当に高い評価を与えられている、といってよいだろう。
 それでも若手の場合は、まだ可能性があるから許せるとして、悲惨なのは過去の名声によりかかって、実質はかなりひどいという、老朽化した演奏家や演奏団体の場合だ。たとえばヴィヴァルディの《四季》で日本にバロックブームを引き起こしたM合奏団。これまで30年にわたって、ほぼ隔年に来日しているが、ここ数年の凋落ぶりは、目を覆うばかり、いや耳を覆いたくなるほどだ。
 1952年に結成されたこのグループ、これまで数回にわたってコンサートマスターの交替でなんとか陳腐化をしのいできたが、いかんせん、メンバーの高齢化が進み、もう限界だ。にもかかわらず、来日公演のスケジュールはすさまじい。93年来日の場合、9月28日の東京公演に始まり、11月4日までの37日間に、なんと33公演をこなしている。この期間中、公演のない日は4日しかない。しかも、九州から北海道まで、日本全国を回っている。イタリア人はタフなのかもしれないが、しかし、こんなスケジュールで、まともな演奏ができるのだろうか。
 筆者の聴いた公演は、来日直後のものだったが、お世辞にもいいできとはいえないものだった(この公演に関しては、それなりの理由もあったのだが)。ソリストはそこそこに気合が入っていたが、バックのアンサンブルがダメ。音程も悪く、集中度に欠けるものだった。それでも、「四季といえばM合奏団」ということで、聴きにくる人も多いのだろう。傲慢との批判を覚悟の上で敢えて言うなら、中には質の落ちた演奏を聴かされても、「M合奏団の演奏だから、いい演奏に違いない」と思い込んでしまう、お人好しの聴衆さえいるのかもしれない。
 来日する演奏家、演奏団体の中には、明らかに本気で演奏せずに「適当に流している」例も見受けられる。そういった面はM合奏団にもあるが(なんらかのトラブルで、まったくやる気をなくしていたこともある)、しかし仮に彼らが本気を出したとしても、もう限界ではないか、と筆者は思っている。ピークをはるかに過ぎたM合奏団の演奏は高い入場料を払ってまで聴くに値しない、とまではいわないが、日本人の定番好み、ブランド指向の悪い側面が象徴されているようで、聴き終わった後、筆者はなんとも複雑な気分になった。音楽を聴く耳を持っている人なら、たとえクラシックにはなじみがなくても、おそらく、M合奏団の演奏に首を傾げ、こう感じるのではないか…「クラシックと偉そうなことをいったって、大したことはないじゃないか」。
 どんな名演奏家であろうとも、人間である以上、精神的にも肉体的にも、いつの日か老いる。聴く側の私たちも、老いる。そしてかつて自分の愛した演奏家が老いていくのを見る、ということは、自分自身が老いていくのを見ることでもあるのだ。これはこれで、感慨深いことだから、M合奏団を、あるいは彼らの《四季》を回顧的に聴く人に対して、筆者は何も言うことはない。しかし、将来のある若い人や、これから《四季》を聴こう、という人には、M合奏団の演奏は薦められない。もっと別の《四季》に、新しい《四季》に目を向けてほしい。
 ということで、今回はアンドリュー・パロット指揮のタヴァナー・プレイヤーズによる演奏を紹介しよう*。ただし、誤解のないようにお断りしておくが、この演奏が「現在、最高だ」などという意味ではない。たとえば、この演奏は、比較的テンポのゆれが大きい部類に属する。で、これを心地よい表現と聴くこともできるが、ちょっとやり過ぎ、納得がいかない、という方もおられるかもしれない。ただ、同じ春でも、年によって少しづつ趣きが異なるように、ヴィヴァルディの《四季》も、いろいろあっていいはずだ。これは、あくまで、ひとつの《四季》に過ぎない、ということである。
*Discography:
ヴィヴァルデイ/“四季”=パロット(東芝EMI、TOCE-7601)
94/02 rev.95/07
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