bogomil's CD collection 1
ラフマニノフ:《ヴォカリーズ》
心をなぐさめる弦の響き
Rachmaninov: Vocalise

 現代社会は、様々なストレスに満ちている。ストレスには、よいストレスもあるらしいが、どちらかというと、悪いストレスの方が多いような気がする。混雑した通勤電車、うるおいのない都会の環境、決まり切った仕事、職場の人間関係。不幸とはいえないが、かといって幸福とも感じられない、先の見えた人生…。このような状況で、私たちは、精神的に疲れ、そして音楽になぐさめや安らぎを求める。私たちは、それぞれ、心に何か弱さがあり、その部分を補うために、音楽を聴くのだろう。そして、もしかしたら精神的に極めて強靭な人は、音楽を必要としないかもしれない…。
 ところで、桜林仁著「生活の芸術」(誠心書房)には、精神医学の分野での音楽の効能について、書かれているが、特に憂うつ症に関する、アルトシューラーの説を紹介している部分は興味深い。
 「うつ病患者は、ゆううつ感から離脱することを求めている。むじゅん[ママ]するようだが、この場合、陽気で快活な幸福感にみちた音楽をきかせると、患者はしばしばいらだってくるのである。そして、短調音楽に、かえってひきつけられる徴候を示す。短調の典型的な表現は悲哀のムードである。楽器については絃楽器がいちばんよく、管のたぐいは、噪音に敏感な患者や、不安な状態に苦しむ患者には、適切でないことを発見している。アルトシューラーの方法は、うつ病患者の気分を変化させるのに、まず、リズムのはげしい音楽で注意をひきつけておいて、つぎに、かれらの現在のムードにぴったりとする哀調をおびた音楽を聴かせる、それから、次第に、暗い悲しい音楽から明るい音楽へと、曲目を変えていく」(40〜41頁)。

 これは、何も憂うつ症という、特殊な精神的疾患に限らず、なんとなく憂うつな気分になることの多い、大多数の現代人にとっても当てはまることだ。日頃の音楽の聴き方をふりかえってみると、うなづける点が多々ある。たとえば筆者の場合、仕事で疲れて帰ってきたときに、元気になろう、としてアップテンポで快活な曲を聴くことは、まずない。むしろ、なぐさめてくれるような、静かで落ち着いた音楽、特に弦楽器の曲を聴くことが多い。弦の響きは、心を落ち着かせる効果がある。ただし、仕事で、いやなことがあって、特に興奮しているような場合は、破壊的な現代音楽や、ある種のオルガン曲のような厳格な音楽が聴きたくなる。このような選曲は、前述のアルトシューラーの説と、ほとんど一致している。
 このことを裏返すと、ある人の好んで聴く音楽を調べれば、その人の精神状態や、性格といったものが、かなりの程度、明らかになるということだ。一見、明るく、快活に見えても、カラオケで暗い演歌ばかり歌う人は、心の奥では、暗く、寂しいのかもしれない。電車の中でもどこでも、所かまわず、ヘッドフォン・ステレオで落ち着きのないロックを聴いている若者は、どこか、心の中に苛立ちがあるのかもしれない。つまり、クラシックにせよ、ロックにせよ、ニューミュージックにせよ、マニア的な愛好家というのは、「音楽なしでは、精神的な安定が保てない」がゆえに、音楽に極度にのめり込んでいるとも考えられるのだ。
 ある個人が、どのように音楽とかかわっているかは、様々なことを教えてくれそうだが、しかしだからといって「音楽による性格判断」とか、「音楽占い」というのをやれば、よく当たって成功する、と考えるのは早計だ。既存の占いや姓名判断は、血液型とか、誕生日の星座とか、名前の画数とか、ほとんど意味のないデータに基づき、したがって、誰にでも当てはまるような、当てはまらないようなところがミソで、どうとでも解釈できるところに、救いがある。もし、占いや姓名判断が完全に当たってしまったら、恐怖である。誰も、自分の未来の姿や、自分の本当の内面を知りたいとは思っていない。
 さて、ここで「静かな弦楽器の曲」を1曲選んでみよう。楽器は落ち着いた響きのチェロがよさそうだ。で、候補はいろいろあるが、ここで迷っているとストレスがたまるから、思い切ってラフマニノフの《ヴォカリーズ》のチェロ版にしよう。演奏者もいろいろだが、独断で、ハインリッヒ・シフの演奏*。月並みな表現で申し訳ないが、「心がやすまる」演奏だ。蛇足ながら、この曲を取り上げる、ということは、筆者もかなり疲れているということかもしれない。
*Discography:
Rachmaninoff: Cello Sonata-"Vocalise"(Heinrich Schiff), PHILIPS 412 732-2

94/01 rev.95/09
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