安土桃山時代、茶道が大流行した。
そのせいで、茶器の値段が高騰した。
千利休あたりが、
「これは名器である」
と言いさえすれば、
フィリピンあたりの糞壷に、
お城一個分の価値が出た。
アホくさいといえば確かにアホくさいが、
ともかくもそういう時代だったのである。
人間だれしも、何かに熱中するときが有る。
惚れるといってもよい。
すべてのことを差し置いて、ある一つのことだけに集中する、
それに何の意味があるかということは考えない、
そういうことは、だれしも経験することである。
少なくともその時、彼(社会)は
「茶器こそ、この世でもっとも愛ずるべきもの」
と信じたのである。
その信ずる所が、妥当なものであったかどうかはともかく。
人間何かを信じにゃ、生きていけん。
何も信じなければ、無限の相対主義に陥り、
行動というものができなくなる。
あれが良い、あれは悪いと信じるからこそ、ではこうしよう、ではああすまいと、
行動に対する決断ができるようになるのである。
良い、悪いの判断をすべて消し去ってしまえば、
もはや人間には、泣くとか、笑うとかの、
幼児的な行為しか、できなくなるのである。
無論人間は、有限な知識しか持たない。
それゆえ人間は、非常にしばしば間違える。
だが間違えるからといって、
価値判断を放棄するわけにはいかないし、事実できない。
なぜなら、「間違えたから価値判断を放棄しよう」と考えること事態が、
すでに価値判断なのだから。
したがって人間は、
永遠に価値判断をしつつけねばならない。
これは人間の、業である。
釈迦といえども、キリストといえども、
この業からは、脱却できなかった。
釈迦は、苦しみからの解脱に、価値をおいた。
キリストは、愛に価値を置いた。
将来人間より知能が発達した生き物が出てきても、
この業はなおのこと深まるばかりである。
しかしながらそれがまた、人間の良いところでもある。
あれやこれやの事象に対して、
あれかこれかと判断して、
しばしば間違い、しばしば正解をだし
そうやってともかくも、人類はここまで発展してきたのである。
いいかえれば、社会は発展してきたのである。
彼(社会)は、戦国時代は、武力がすべてと、信じてきた。
安土桃山では、茶器と黄金に夢中になった。
江戸時代は、文化と金、
明治以降は、武力と文化、
終戦以降は、再びお金。
その時その時で、彼は彼なりの価値を持っていた。
彼なりに、何かを信じていたのである。
なぜ信じる対象をお金にしたの、という設問は可能である。
しかし、なぜ何かを信じるの、と聞かれると、困ってしまう。
常に何かを信じて行動しているのが、彼なのである。
彼は常に何かを信じていないと、行動できないのである。
ここに、価値というものの本質が有る。
価値とは、本質的に、いわゆる正しさとは関係無いのである。
彼(社会)は、価値を持たなければならないから価値を持つ。
何かを信じなければならないから、何かを信じる。
そおゆうわけで、実は、価値とは「信」と呼び変えてもよい。
価値とは信用であり、信頼であり、信念であり、しばしば信仰である。
ストラディバリウスという名前に、信が、信用があるから、
ストラディバリウスは高価なのである。
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