4.社会はんの心
安土桃山時代、茶道が大流行した。
そのせいで、茶器の値段が高騰した。
千利休あたりが、
「これは名器である」
と言いさえすれば、
フィリピンあたりの糞壷に、
お城一個分の価値が出た。

アホくさいといえば確かにアホくさいが、
ともかくもそういう時代だったのである。
人間だれしも、何かに熱中するときが有る。
惚れるといってもよい。
すべてのことを差し置いて、ある一つのことだけに集中する、
それに何の意味があるかということは考えない、
そういうことは、だれしも経験することである。

少なくともその時、彼(社会)は
「茶器こそ、この世でもっとも愛ずるべきもの」
と信じたのである。
その信ずる所が、妥当なものであったかどうかはともかく。

人間何かを信じにゃ、生きていけん。
何も信じなければ、無限の相対主義に陥り、
行動というものができなくなる。
あれが良い、あれは悪いと信じるからこそ、ではこうしよう、ではああすまいと、
行動に対する決断ができるようになるのである。
良い、悪いの判断をすべて消し去ってしまえば、
もはや人間には、泣くとか、笑うとかの、
幼児的な行為しか、できなくなるのである。

無論人間は、有限な知識しか持たない。
それゆえ人間は、非常にしばしば間違える。
だが間違えるからといって、
価値判断を放棄するわけにはいかないし、事実できない。
なぜなら、「間違えたから価値判断を放棄しよう」と考えること事態が、
すでに価値判断なのだから。

したがって人間は、
永遠に価値判断をしつつけねばならない。
これは人間の、業である。
釈迦といえども、キリストといえども、
この業からは、脱却できなかった。
釈迦は、苦しみからの解脱に、価値をおいた。
キリストは、愛に価値を置いた。
将来人間より知能が発達した生き物が出てきても、
この業はなおのこと深まるばかりである。

しかしながらそれがまた、人間の良いところでもある。
あれやこれやの事象に対して、
あれかこれかと判断して、
しばしば間違い、しばしば正解をだし
そうやってともかくも、人類はここまで発展してきたのである。
いいかえれば、社会は発展してきたのである。

彼(社会)は、戦国時代は、武力がすべてと、信じてきた。
安土桃山では、茶器と黄金に夢中になった。
江戸時代は、文化と金、
明治以降は、武力と文化、
終戦以降は、再びお金。

その時その時で、彼は彼なりの価値を持っていた。
彼なりに、何かを信じていたのである。
なぜ信じる対象をお金にしたの、という設問は可能である。
しかし、なぜ何かを信じるの、と聞かれると、困ってしまう。
常に何かを信じて行動しているのが、彼なのである。
彼は常に何かを信じていないと、行動できないのである。

ここに、価値というものの本質が有る。
価値とは、本質的に、いわゆる正しさとは関係無いのである。
彼(社会)は、価値を持たなければならないから価値を持つ。
何かを信じなければならないから、何かを信じる。
そおゆうわけで、実は、価値とは「信」と呼び変えてもよい。
価値とは信用であり、信頼であり、信念であり、しばしば信仰である。
ストラディバリウスという名前に、信が、信用があるから、
ストラディバリウスは高価なのである。

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