この事は、別に、バイオリンに限らない。
ありとあらゆる、価値のあるものの、その価値について、
そうといえるのである。
例えば金。
あのぴかぴか光る金属の、どこに価値があるのか。
光っていれば、価値があるのか。
重たければ、価値があるのか。
金は別に、光っているから、あるいは重たいから価値があるわけではない。
金は、多くの人々が、価値のあるものとみとめているから、価値が有るのである。
価値の源泉とは、徹頭徹尾、心理的なものなのである。
今多くの人々という言葉を使った。
これには訳がある。
例えば、私が宇宙船に乗ったとする。
宇宙船に、たった一人で乗ったとする。
ところがこの宇宙船が、しかるべき軌道を外れてしまい、
どんどん地球からとうざかり始めた。
起動を元どうりにして、地球に帰還するような燃料は、もはやない。
しかしながら、なかなか設備の整った宇宙船で、
このままでもあと五十年くらいは、生き延びられる。
仕方ないので私は覚悟を決め、
この船の中で、一人で、五十年間生きていくことにした。
そうなったとき、船に積んである、地球の銀行の預金通帳に、
何の価値があるか。
同じ本でも、宇宙船の動かしかたやら何やらの方が、
よっぽど役に立つ。
つまり、たった一人の状況では、役に立つものが、すなわち価値である。
別の言い方をすれば、有用と、価値とが分離していない。
だから、宇宙船内で私は、価値があるとか何とか考えなくてもよいのである。
あるいは、価値という言葉を忘れてしまってもよい。
有用という言葉だけで、何とかなるのである。
これが現実の社会の中では、話がちがってくる。
ダイヤモンドのような、少しは有用でも、
さほど有用とは言えないような物が、価値を帯びてくる。
価値は確かに、人間の心が生み出したものだが、
人間一人の心ではなく、
社会が、
もっと言えば社会の心が、産み出したものである。
社会の心とは我ながらかなり文学的にすぎる表現だが、
私も日本的アニミズム人間である。
最近 Linux を使っているのだが、
しばしば
かわいいやつだと思ってしまう。
だいたい、面白く言うために、ギャグ的なニュアンスを持たすために、
「素晴らしい」と言うことはあっても、
普通我々は、素晴らしい、とか思わないのである。
たいていの場合「可愛い」とか「可哀相」とか、
「それでは気の毒だ」とか、「ええい、怠け者」とかの感情を、
機械に対して、感じている。
「動けー」と叫んだとしても、機械が動いてくれないのは、
理屈では分かっていても、
いざとなれば、「動けー」である。
だからここは、理性とプライドをあっさり捨てて、
社会ゆうもんは、いきもんや、と思い込むことにしよう。
社会はんにも、心っちゅうもんがある。
価値っちゅうもんは、社会はんの心が作り出したもんなんやで。
物それ自体に有るんやないでー、と
なぜ関西弁になるのかはともかく、
思い込むことにしようではないか。
しようではないか。しようではないか。
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