確かに、ストラディバリウスさんは、良いバイオリン製作者であった。
よいバイオリンを、たくさん作られた。
しかし、中にはあまり良くないものもあったであろうし、
よい楽器だったのに、いたんでしまって、駄目になったのも有る。
それらのうち、良いものに高い値段がつくというのなら、
これは理解できる。
よくない物にまで、ストラディバリというだけで、高い値段がつく。
これはどういうことか。ものの価値とは、いったい何か。
労働価値説というものが有る。
ものの価値は、それに費やした労働に比例するというものである。
それは、おお嘘である。
モーツアルトのような天才が、おしゃべりしながら作った曲が、
往々にして、下手な作曲家がウンウンうなって作った曲より、
価値が高かったりする。
では、ものの価値は何にあるのか。
物の性能にないことは、先に述べたとうり。
ものの価値とは、何にあるのか。
ストラディバリウスの場合を、もう一度考えてみよう。
人々が、ストラディバリウスを、いくら良いバイオリンだと思ったとしても、
価値の高いもの、値段の高いものと考えなかったとしたら、
ストラディバリウスは、値段が高くなったりはしない。
人々が、「この楽器は、大変、価値がある」と考えるからこそ、
楽器に価値が芽生えるのである。
たとえば私が、(ありえないことだが、例えば)ストラディバリウスを持っているとしよう。
この楽器は、現在億単位の価値がある。
ところがある日、私を除く全世界の人々の考えが、
コロリと変わってしまった。
「なんで俺達は、ブランドなんて物を信用してたんだろう。
ものの価値なんて物は、物の性能で決定されるべきだ。
音のよくないバイオリンなんて、価値はゼロだぜ。」
こうなると私の秘蔵のストラディバリウスも、
ただの木の箱になってしまう。
昨日のストラディバリウスと、今日のストラディバリウスで、
何の変化も生じていないにもかかわらず。
要するに、ものの価値とは、
物に有るのではない。
人間が勝手にこしらえるのである。
別の言い方をすれば、価値は、
人間のそとにはない。
人間の、脳の中にあるのである。
猫に小判、豚に真珠とは、
良くぞ言ったものである。
次のページ
序文へ戻る
INDEX