かつて私は、楽器屋でアルバイトをしていた。
楽器屋といっても、ヴァイオリンの専門店である。
ヴァイオリンの専門店といってもチェロもビオラも売っている。
チェロもビオラも売っているのだが、
売り上げの多くは、やはりヴァイオリンなのだが、
そんな細かいことはこの際どうでもよろしい。
そこはある大きなヴァイオリン店の、要するに、出店であった。
出店であるがゆえに、あんまり楽器の数は置いてない。
何しろ、無茶無茶狭い店なのである。
であるが、本店の方は、かなり大きな店であったようである。
支店があまりにも狭く、見苦しいため、
年に一度ほど、別会場を借りて、本店から大量の楽器を運び込み、
展示会を開くのである。
その楽器の量と質は、たいした物であった。
何しろストラディバリ、グァルネリ.デル.ジュスまであるのである。
無論それが本物であると確信を持って言える権限は、
私にはないのだが、
多分本物であったと考えている。
普通世間で、ヴァイオリンの名器といえば、ストラディバリウスであるが、
あの世界では、デル.ジュスの方が高く評価されている。
この両者は、作風はまったく正反対で、
ストラディバリウスが精密で美しい楽器を作るのに対して、
デル.ジュスは荒っぽく、いびつで、それでいてよく鳴るのだから、
やはり、デル.ジュスは天才だったのであろう。
(デル.ジュスの性格も、楽器の形どうりで、非常に激しく、
何でも人を殺して、刑務所に入ったことも有るそうである。)
音色の方も正反対で、ストラディバリウスは硬く、よく通る音である。
デル.ジュスは、性格に似合わず、柔らかく、大きな音がする。
どうしてデル.ジュスが一般にあまり知られていないかというと、
数が少ないのである。もともとそういう性格の人だったので、
作った楽器の数が少ない上に、
音が大きかったので、野外で使用されることが多く、
壊れたものが多いのである。
そのバイオリン制作の二代巨頭の楽器を、
私は実際に触ったのである。
これは、結構すごいことだと思う。
触ったのみならず、弾いてみたのである。
そもそもヴァイオリンという楽器は、ピアノやオルガンと違って、
ひく人によって音が違うのである。
上手な人は、いい音をだし、
下手な人は、いい音を出せない。
つまり、私が弾いたといっても、その楽器の全能力を引き出したとはいえないのである。
にもかかわらず、私はあえてここで断言しよう。
デル.ジュスの方は、確かにいい楽器であった。
ストラディバリの方は、
もしかしたら、上手い人がひくと、良い音を出すのかもしれないとはいえ、
私の感じた範囲では、大した事なかった。
ストラディバリウスといっても、色々有るのである。
考えてみれば、当たり前のことである。
レンブラントの絵が、すべて名作というわけでもない。
バッハの曲が、すべて名曲というわけでもない。
にもかかわらず、レンブラントの真作ともなれば、すべて高額で取り引きされる。
私の触った、非常に作りの見事な、しかしあまり鳴らないストラディバリも、
億の値がついていた。
バイオリンは音が命、という常識は、実は、嘘であった。
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