『DNAの冒険』

トラカレアシスタレポート

Transnational College of LEX
1994年 9月

北村まりえ
高野俊一
平岡一武
初芝理恵
古田務
武藤早苗
石川昌郎
田代健
山元秀樹
鈴木留美子
中村滋

1. ぼくは なあに?

ことばを自然科学するカレッジ−トランスナショナルカレッジ オブ レックス 外側から内側へ

 “科学は人間によってつくられるものであります。これは自明のことですが、簡単に 忘れられてしまわれがちです。このことをもう一度思いかえすならば、しばしば嘆かれ るような人文科学−芸術と、技術−自然科学という二つの文化の間にある断絶を少なく することに役立つのではないでしょうか。”
 これはトラカレの課題図書『部分と全体』の序の書き出しである。何回となく目にし た文章であるが、これがいつの頃からか自分たちのことを言っているのだと気がついた 。  そしてある時榊原さんの

「人間は自然の存在である」

という言葉が、ストンと自分の中に落ちた時がある。
 人間は何十億年という進化のプロセスの中で、自然に出来上がってきたものである。 誰かが部品を集めて作り上げたというものではない。従って自分自身の中で起こるいろ いろなことは、すべて自然現象なのだ。
 普通、社会では「○○のために、○○しなければならない」という論理で動く。良い 学校へ入るために、良い点数をとらなければならない。なぜ良い学校へ入らなければな らないかと言えば、それは良い会社に入るため。なぜ良い会社に入らなければならない かと言うと…。どうもそれが一般的に思われている幸せというものらしい。
 しかし一度それをご破算にして、自分の中で起こることに耳を澄ませてみる。

「自分の外側に世界があるのではない。自分が見つける世界があるだけなのだ」。

 まさにその時から、私たちは新しい世界を見つけはじめたのだ。

 しかしそうは言っても、自分の中をただいくら覗き込んでも世界は見えてはこない。 常に自分の外側に、具体的な対象が必要だ。それがトラカレにとっては『部分と全体』 であり、様々なフィールドワークである。
 一見、無機的な音声波形や数学、物理の中の、また荒唐無稽にも思える記紀万葉の説 話や歌の中の、そして、いわゆる「まだことばは話せない」赤ん坊の振る舞いの中の、 複雑な表層を突き抜けたその深淵に行き着いた時に、「自然な人間の姿」としての自分 自身が見えてくる。それが「自然の秩序を見つける」ということであり、「ことばを自 然科学する」ということなのだ。
 そうしてトラカレではこれまで、冒険シリーズ、暗号シリーズをはじめとして、いく つかの成果を世に問い、それなりの成功を収めてきた。
 結果のために努力するのではない。自分が内側から見つけていくその世界は大きくて 豊かであり、その中に自然の道すじが見えてくるのだ。

「自然は最短距離をとる」

人間にとって一番自然な営みの中に本当の学びの場があるのだ。

 しかしいろいろなフィールドの成果が出るようになってくると、同時に大きな問題が 起こってきた。トラカレがバラバラになってきたのだ。
 初めはフィールドと言っても茫洋として形も何もなかったから、そのような問題はな かった。しかしそれがだんだん切れ込んでくると、お互いに違いばかりが目につくよう になる。そしてそのうち、ことばも通じなくなってきた。さらにトラカレがヒッポ全体 の中でどのような位置にあるのか、ということも見えなくなってきた。
 本当は違うはずなのだ。榊原さんが繰り返しフラワーモデルの中で語ってくれたよう に、それぞれの部分は「ことばと人間」という全体を共有しているはずなのだ。しかし その頃、それは「頭では分かっているが、心では分かっていない」という状態で、どう したらよいのかわからなかった。
 いろいろ試みてはみたのだが、どうもうまく行かない。そのうち事態はどんどん悪化 してくる。トラカレの雰囲気も最悪になった。これ以上行ったらもうだめだ、というと ころまで行ったとき、「ガチャン」と音がしたように、全体が回復されたと皆が感じた 時があった。
 今にして思えば、それまでは「全体」というものが、どこかにあるものだと思ってい たのだ。しかしそうではなかった。全体は、自分たち自身の中にあったのだ。

2. 見てしまった!
ことばを育てる「場」
単細胞から多細胞へ
単言語から多言語へ
「自分」から「自分たち」へ

 トラカレ10年目の昨年、私たちはみんなで新しいことばを見つけた。それが「場」 ということばだった。それは私たちの内側、つまり体験から見つけたものだ。
 昨年の6月から月一度のペースで“トラカレワークショップ”が行われることになり 、私たちはその準備として月のうち3週間、ひたすらみんなで話すという結果となった 。それはなかなかハードだったが、自分たちのことを外側に開いていくという場を与え てもらったことで、自分たちの内側で起こっていることが見つけられるようになってき たのだと思う。
 その準備、つまり話し合いや、トラカレワークショップに向けて進んでいくプロセス が、それまでのトラカレのやり方とは全く違うことが起こったのだ。
もちろん単発でそういうこともあったが、昨年一年間のそれは、私たちのスタンスが大 きく変化したと言えるほど「見つけた!」という実感がある。それが「場」の発見だっ た。

 以前のやり方はこうだ。まずトラカレワークショップで何をやるかを決める。そして 次に全体の流れ、必要な項目を決め、人を割り振るという形だ。
 ところが昨年以来、次のように変わった。まずトラカレワークショップがあるという ことを頭に置いた上で、一人一人が自分の話を、自分が今、いちばん言いたいと思うこ とを話す。これでだいたいトラカレワークショップで何をやるかが決まり、同時にテー マも見えてくる。一人一人の話が出そろうとそれが項目となり、そこから全体のストー リーが浮かび上がってくる。
 全体の流れが見えてくると、個々の役割もくっきりとしてくる。こうして個人個人の 話の寄せ集めではなく、トラカレ全体としてのことばが生まれてくるのだ。一人一人が 薄まってしまうのではなく、より生き生きしたものとして存在しながらも、それは一つ のストーリーになっているのだ。単言語の積み重ねが多言語ではない。
 このことが画期的だったということには、二つの意味がある。
 一つは、以前のやり方では、最終的には誰かが、かなり大きな労力をはらって個々の 話を修正し、全体を方向付けていくということをしなければならなかった。しかしこの ように場の中でやっていく時には、「いかなる努力も必要としない」という感じなのだ 。まるで水が流れて行くかのように、全体の方向性が、場の中で見つかって行くのだ。 それはまるでトラカレ全体が、一つの生き物になったようだった。
 そしてもう一つは、「一緒にことばを見つけていく」ことで、ことばを見つけるプロ セスそのものを皆で共有し、またそれをことばにすることが出来るようになったという ことだ。音声やキキマン、赤ちゃんなどのフィールドでやっていることが、「場の体験 」を通して今までとは全く違って見えてきた。そして実際にそこから新たな発見が生ま れて行ったのだ。

 一年間、毎月毎月そのことを体験しながら、私たちはそこに「場」ということばを見 つけたのだ。場は、自分が内側に入って初めて存在する。そしてそれは決して一人では 作れない。自分を開きながらそこにいる人たちみんなとの関係性の中に生まれてくるも の、それが場であり、「ことば」だ。そしてそれは、毎回新しく作られることになる。 0ではないが、0乗からいつもスタートする。だから毎回とてもしごかれた!
 しかしどんなにしごかれても、私たちはもう前のようにはやれなくなってしまった。 スタンスが変わってしまったのだから。

 「個人の中にことばは育たない」「人と人との間にことばが生まれる」「関係性その ものがことば」「フラワーモデル」「5母音の四角形」・・・・。
 トラカレ10年目にして、私たちはようやく「多言語」の意味を体験から見つけたの かも知れない。それが“ことばに対する見方の変換”であるということを。
 トラカレもようやく単細胞生物から多細胞生物へと進化したようだ。

3. ひっくりかえった!
「外国語から母語へ」

 「DNAの冒険」をやったらいいのではないかということは、もともとは中村桂子S .F.がおっしゃったことだった。おそらく量子力学をトラカレでやったのと同じよう に、DNAに関して、今わかっていることを分かりやすくまとめてみたら、というよう なことだったのだと思う。しかし私たちは、その「DNAの冒険」ということばを聞い て、もっと違う方向にイメージが膨らんで行ってしまったのだ。
 出発点は、DNA、もっと広く言って「生き物の振る舞い」が「ことばの振る舞い」 と、とても良く似ているというところだった。例えば、人間などの多細胞生物が、ひと つの卵から何十兆個の細胞によって構成される個体まで発生していくプロセスなどがそ の典型である。初めのうちはまさに大まかな全体が出来ていき、徐々に細かく分化して いく。その他にも思い当たることはたくさんあった。
 だから一つには、生き物の振る舞いを学ぶことは、自分たちが知りたいこと=ことば の振る舞いを知ることになるに違いない、ということがある。しかしそれだけでは、「 DNAの冒険」の本は出来ないと思った。分子生物学で今わかっていることは、極端に 言えばあまり面白くないからだ。
 分子生物学と言うのはその基本的な考え方が、「生き物について知りたければ、一つ 一つを細かく分解して、それらがどうなっているのかを調べれば良い」というものだ。 だから本などを読んでも、「こんなことまで分かっているのか」というくらい細かいこ とまで、いろいろ分かっている。しかしその発想としては、「今の言語教育」と全く同 じだ。ことばを分解して一つ一つの部品、発音とか、単語とか、文法とかに分け、一つ 一つを勉強して、ガシャンとまとめればことばが話せるようになる。しかしそれでは実 際には話せるようにはならないということは、自然の中で証明された事実である。
 分子生物学でも、いろいろなことが分かってはいるが、実は肝心なことが分かってい ない。それは「生きている」とはどういうことか、ということだ。それはまさに部分の 中にではなく、「全体がどのように出来上がっていくのか」を問わなければならない。 しかしそのような問いに対しては、分子生物学はその基本的な発想からして無力なので ある。
 しかし直感的に思ったのは、自分たちならそのことを見つけることが出来るのではな いか、ということだった。ヒッポでは、内側の体験から「ことばがどのように出来て行 くか」ということを見つけている。そこから分かって行ったことが、逆に生き物の振る 舞いを説明することがあるのではないか。細かい細かいことにばかり気を取られている 人たちには見えないことが、意外に自分たちなら、見ることが出来るのではないか、そ う思ったのだ。それならばDNAの冒険という本を出版する意味が、十分にある。
 このことを思ったのが、もう3年以上前のことだ。しかしそれが今まで始められなか ったのには理由がある。
 まずひとつには、DNAの冒険をそのようにやるということであるとすると、それは 、まだ世の中の誰も「分かっていない」ことに挑戦するということだ。フーリエも、量 子力学も、ある意味では既に分かっていることだった。だからトラカレの中でも何人か は、それらの冒険に出発する時点で、大体の道筋は分かっていた。もちろんトラカレの みんなで冒険していくプロセスでどんなことを見つけるかまでは分からないにしても、 基本的な道案内はできたのだ。
 しかし今回は、まだ分かっていないことをやろうとするわけだから、そのような道案 内は本質的に有り得ない。そのような冒険を、しかもDNAのことなど何も知らないト ラカレ生みんなと、どのようにやっていったらいいのか、皆目検討がつかなかった。  もう一つ、もっと本質的とも言える理由があった。それが、「ことばがどのように出 来て行くのか」という問いと、トラカレでやっていることとの関係が、見えなくなって いたということだ。
 しかしこれらの問題について、昨年トラカレで「場」を見つけ始めたことで、一気に 突破口が開けたように思う。誰かが方向を示して皆がそれについていくということでな くても、場の中で全体としての方向を見つけて行けるようになった。そして場の中で一 緒にことばを見つけていくということが出来るようになり、トラカレの全体で「ことば が出来るようになっていくプロセス」を共有し、ことばにする(=ことばを自然科学す る)ことができるようになったのだ。
 さらに踏み込んで言うならば、場がどのように出来上がっていくのかをことばで表現 していくことそのものがDNAの冒険なのだ。それはトラカレの場であるのと同時に、 ヒッポ全体の場であるとも思う。
 人間の体は60兆個にもおよぶ細胞が各々違った役割を果たしているにも関わらず、 全体として一人の人間として調和している。そのような場が、ヒッポ全体の中にどのよ うに作っていけるのか。DNAの冒険は、まさに自然の組織論そのものなのである。

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新しいものを生み出していく場(ホームルームという場所を通して)

 今年は新入生もたくさん入り、一層環境が充実した様に見えた。しかし冷静に中身を 見てみると今のヒッポと同じ様な状況が見えてきた。新しい人と古い人との間の人達が 少ないのである。8〜10期生の中でトラカレをやめていった人達が何人かいる。すべ ての人がとは言わないが、楽しそうなトラカレに実際入ってみて、自分が思っていたも のとは違うと感じたからなのではないだろうか。ヒッポとトラカレには外側から見えに くい、とても重要なものがある。
 ヒッポもトラカレもカリキュラム、やり方を教える(押しつける)先生、などがない 。その代わり自分達が遠い昔、何ひとつ不思議と思うことなくやっていた自然習得その ものをベースに、言葉を自然の中でおきる現象の1つとして捉え研究している。その中 で言葉がしゃべれるようになる環境とは与えられるものではなく、自分も環境の1人だ ということを認識しなくてはいけない。ヒッポやトラカレには豊富なベースとなる環境 はあるが、自分もその環境の一部とならなくてはその意味が半減する。それは場におけ る居場所という見方もできる。
 居場所とは全体との関係性を持つことによって生まれる。思っていることや、感じた 事を言葉にし、それを受けてもらえる場所。
 そして自分達のやりたいことを日常的に確認する場所。
 これらをすべて含んだ場がトラカレのホームルームという時間であり、重要性を多分 に秘めていると感じて、自分がその場のフェロウをやることにした。しかしなぜボクが ?それはトラカレ生としてあまり長くないボクがやってみるのもいいかと何となく思っ たからである。

 初めはみんな色々な事を言ってくれた。
 いかに思っていたものとトラカレが違うとか、社会とのギャップとか・・・。それは いかにギャップの多いトラカレを理解するか、のための場にも思えた。
 人の言葉だけによって理解するのではなく、自分のトラカレやファミリーでの体験な どを通して見つけていく。
 しかしこういう場を目指すために何かをすればするほど不自然になっていく。何とな くフェロウの気持ちが解ったような気がした。一通り出つくすと沈黙になっていく。何 としてでも無言の状態を無くしたかった。もっとも全体で共有していきたいこの時間を みんな“自分には関係ない”と思っているのではないだろうか?とも思った。

 しかし、全く逆の立場である場所が近くにあった。アシスタミーティングである。こ の場所で僕が発言することはほとんど無い。というより、何か話したくても話せない時 が多い。
 なぜかというと、みんなが当然のようにうなずいているような言葉がだいたいでしか 解らないのである。僕にとっては余りにも抽象的に聞こえる。そして理解した時にはそ れが含んでいた内容のすごさに驚いた。あまりにも解らない事の多い時は自分が自然習 得からかけ離れているのかと思った。何を喋ったらいいか解らない。頭の中で自問自答 し完璧になってから話そうとする。すると話せない・・・。
 ファミリーでもはまりがちな、まさに“ことばの自然習得のプロセス”とは反対の状 態に陥っていた。

 同じような場面を国際交流で体験した事があった。大ちゃんとベラクルスにいった時 である。大ちゃんはスペイン語が話せる人だった。そして僕は話せない人。
 向こうも何を聞いても満足に答えられない僕と話すよりも大ちゃんと話す。僕も始め のうちは話しかけていたが自分のスペイン語が間違っている、と思うと大ちゃんに通訳 してもらうようになった。今考えてみるとあの時も話せる実感はあるにはあった。話し かけられていることの内容もだいたい解ったし、間違っているかも知れないが話せた。 しかし期間が短かったせいもあって、とうとう話せる人にはなれなかった。
 僕はその後メキシコシティーでもおなじ悩みをもち続け、日本語の全く無いエルモシ ージョへ不安と希望を胸に秘め向かった。飛行場でホストの1人と話した。すると僕の スペイン語をすべて理解してことばを返してくれる。それに答える。何かを手にいれた 気がした。
 その瞬間からスペイン語が止まらなくなった。この時から僕はスペイン語が話せる人 になった。

 今考えてみるとエルモシージョ行の飛行機の中でスペイン語の特訓をしたわけでも無 い。文法力も語彙も2時間前と全く変わらない。しかしあきらかに自分の中でスペイン 語が大きく変わっていた。

 自分の体験を通して言葉の出来ていくプロセスを解っていたのだ。

 言葉を引き出し合う環境、それはやはり自分を含めた豊かな場であり、それは自分の 中の体験を通して話し合うことで作られる。
 そしてただ思いついたことを話すのではなく、
 “ことばと人間を自然科学する”=“DNAの冒険”というテーマを共有しあう場に よって新しいものが生み出されていくのではないだろうか。さらにテーマを共有し、話 しあえる新しい仲間(赤ちゃん)が増えることによってさらに冒険を続けていくのだ。

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 1人1人が自分の話をすることで「場」となり、みんなのことばが生まれるというこ とを昨年1年間を通して見つけてきた私たちの今年4月…。今年1年間のことを新入生 もアシスタもとにかく全員で話して予定をたてることになった。もちろん私たちのやり 方はトラカレワークショップの時と同じだった。1人1人が話して・・・最後には一瞬 にして1年の具体的な計画が決まった。
 そして私たちはいよいよ今年、“DNAの冒険”に歩み出す決心をした。そのとたん 、私(そしてたぶん全員[特にアシスタ])がどうしてもトラカレでやりたくてやりた くて今までできなかったことを、ついに真正面から切り込む時が来たことを思い知らさ れるのだ。
 それが自分たちのことばの体験をほどいて、そこから「ことばが話せるとはどういう ことか」「ことばがどのように話せるようになっていくか」誰もが納得するようなこと ばを見つけていくということだ。
 トラカレが今までそのことをまったくやっていなかったのか?そうだとしたら「こと ばを自然科学する」ということをまったくしてこなかったのか?
 そうではないと思う。少なくともトラカレにおいて私たちは自分のことばで自分たち のことばの体験をほどいてきた。それが音声であり、キキマンであり、フーリエや量力 であり……つまり私たちにとって、トラカレで話されているそれらのことばは母語とよ べるだろう。
 しかし一方、トラカレにおいては、いわゆる11ヶ国語はまだ外国語なのだ。 全員ヒッポのメンバーで、さらにフェロウも何名もいるにもかかわらず、正面から「こ とばが話せるとは」「ことばの自然習得の道すじ」ということについて向かっていった ことはなかった。
 個人レベルではあったかもしれないがトラカレ全体として、1人1人の11ヶ国語の 体験を出しあい、そこからみんなで新しいことばをみつけていくということが成立しな かったのだ。「それはファミリーで」とか、「トラカレはフィールドのことばで」とか 逃げていた。やりたくてもどうしてもうまくいかなかった。
 しかし今年、「多言語」の意味を体得しはじめたトラカレにとって、ここでひっくり 返らなければ“DNAの冒険”も今後のトラカレも無いと誰もが気づかされることにな ったのだ。
 私たちの原点へ、11ヶ国語の多言語の体験、そしてそれをことばにしていくこと。 それができた時、トラカレのフィールドのことばが本当の意味で誰もがわかることばに なるのだろうと思う。そして「ことばを自然科学するカレッジ=トラカレ」として本当 に豊かに育っていくのだろう。
 今、トラカレのみんなでもう一度「ぼくは なあに?」と考えてみたい。そして決心 しよう。「ひっくり返ってバカになろう」と。

4. 飛べるかな?
DNAの冒険
これからの具体的な展開
3月出版に向かって

 六月のトラカレW/Sで大々的に“DNAの冒険”の本を作るぞーと宣言してからよ うやく今、トラカレ全体が具体的に動き出そうとしている。ようやくというか、ヒッポ の全体、トラカレの中で今なのかもしれない。
 新たな場を見つけた今。
 今回はフーリエや量子力学の時と違って誰にもゴールが見えていない。パイロット隊 の先人たちもいないのだ。ただ、私たちにとっての水先案内人がいるとしたら、それは ヒッポファミリークラブが提唱している“自然にことばがしゃべれるようになる”こと ばの自然習得のプロセスそのものであるに違いないことは確かだと言えそうだ。
 私たちがやりたいのは、DNAの知識を得て、DNAのことを解剖学的に見ていくこ とではない。一個の受精卵から一人の人間の体がどのように形造られていくのか、それ を全体で一個の人間になっているという視点をはずすことなく見たいのだ。その一つの 全体とは何なのか。
 そのことは、”自然なことばの営み”の中に見えてくることと必ず重なってくるもの なのだと思う。
 トラカレにとっての大きな節目、来年の三月に向かってこれからの半年がどのように 作られ得ていくのか、何人の十二期生が入るのか、その結果、トラカレ十二年目のスタ ートがどのように始まるのか、ヒッポの人たちにどのように受けてもらえうるのか、こ れらすべてがDNAの冒険の線上にのっているのである。
 いろいろな要素はあると思うが、トラカレのフィールドとして音声、記紀万、赤ちゃ ん、多言語、DNA、この五つがどうトラカレ全体と関わりあって全体を作っていくか が重要なことだと思う。五つのフィールドをただ、別々の単体のものとして同時進行さ せていくことではない。多言語をやっていく時よく誤解されることがあるのだが、それ は1つ1つのことばを順番にやっていくのだと思われることだ。しかし、それは私たち がヒッポでみつけた多言語ではない。1つ1つの違ったことばとしてではなく、人間が 話す同じことばの1つとして同時にやっていきたいのである。そのことの中に多細胞生 物としての本当の営みがあるはずなのだ。
 例えば、記紀万をやっていく、そのこと自体の中に見つけていきたいことが、DNA の冒険と重なってくるような全体を背景としたものとしてやっていきたいのである。 記紀万とDNAをやって、それを照らし合わせるということではない。記紀万に見えて くることの奥底に見えてくる人間の普遍的な事柄がイコールになるのだ。
 強調したいのは、DNAのフィールドをやっていくことがDNAの冒険ではなく、そ れぞれのフィールドがどう展開していってどう全体とつながっていくかということが問 われることなのだ。

 以前、量子力学の冒険をやった時、トラカレのすべてをそれに注ぎ込んで、トラカレ 全体が量子力学一色になってしまったということがある。おかげでその他のフィールド の方はガタガタだった。
 今回の冒険では、それぞれのフィールドも同時に進行しながら、そのすべてがこの冒 険に向かっていっているようにしたいのだ。多細胞生物の一つ一つの細胞がそれぞれの 役割を担いながら、全体として一個の個体となっているように。フィールド一つ一つの 具体性の中にこそ、DNAの冒険があるのであって、それがなくなってしまっては、元 も子もない。それはもちろんフィールドというものに限ったことではなく、トラカレの 外側との関係の全部に言えることだろう。そしてそれらがうまくいった時こそ、ほんと うの意味でDNAの冒険が成功したと言えるのである。

 それは又、一人の人間がいかに全部をやっていかなければならないかではなく、フィ ールドに関わっていく人たちとの関係性や、バランス、その場がどうできていくかであ る。
 トラカレの時間は朝10時半から夕方5時まではだいたい予定が入っている。その他の 時間にミーティングが入ったり、夜はファミリーに行ったりと、特にアシスタなどはほ とんどがフェロウだし、忙しいことこの上ない。学生にしても、旦那さんもいれば、こ どももいる人だっている。みんながみんな同じ時間を共有できるとは限らない。それは おそらく、トラカレとコーディネーターとの関係にしてもそうだろうし、ファミリーの メンバーにしたってそうだろう。
 しかしそれでは、物理的な時間が全部SHAREできたら一緒にやることになるかと いえばそうではないはずだ。ただ一緒にいるだけがいいのではない。問題は、その人た ちと何をSHAREしているかである。つまり何を問題としているかではないだろうか 。(問題点という意味ではなく、テーマみたいなもの)そうであるのなら同じ場にいる とかとか、いないかということは問題ではないはずだ。
 何に向かっているかということが確認できてさえいれば、どんなに遠く離れても同じ 土俵でできることなのだ。
 日本全国にいるヒッポの人たちと初めて会っても“ヒッポをやっていること”という 点ですぐ話しができるように・・・。だからヒッポのメンバーと共有したいのもその問 い、ことばが自然にしゃべれるようになる営みとは?である。
 私たちトラカレにとって、これはかなり困難な冒険になることは間違いなさそうだ。 しかし、DNAの冒険をやっていくプロセスそのものがDNAの冒険なのである。私た ちはその冒険にすでに足を一歩踏み出しているのだ。

4.1 フィールド
◆4.1.1 記紀万フィールド

ことばはあるものではなかった。当たり前のように使って話していた日本語が実は漢字 (中国語)をベースにしたことばで沢山の韓国語と対応することばなどからできていた ことばだったのである。
 考えてみれば当然であろうと思われることも”日本語”という枠の中にくくられたこ とで見えなくなっていたのが多言語という視点によってくっきりと浮かび上がってきた のだ。“あるもの”として生き物を見ていくのではなく、“なるもの”として見ていく ことが“DNAの冒険”のスタンスとしてあるように、ことばの成り立ちのプロセスを 見つけていくことの中に人間の自然なことばの営みがはっきりとしてくるのである。

 

1.音そのものが意味であるという所からことばが発生し、どんどん細分化していきそ してある時それを伝達するものとしての文字の発生が起きたのだと思うが、漢字をベー スにそのプロセスが意味という系でくくれたらおもしろいのではないかと思っている。

2.古事記の説話はばらばらで飛躍と断絶に満ちていると言われているがそれは視点を どこにおくかによって一貫とした一つの説話としてることがわかってきた。できれば個 々の説話というだけでなく(例えばスサノヲの話とか大国主の話など)神代の全体を易 という軸に投影させて見えてくる物語を見つけたいと思う。太安萬呂が、そして古代の 人たちが描いた”人間と自然”の物語の全体を・・・

 古事記や万葉集などにふれていくうちに古代の風景が見えてきた。ことばには必ず風 景がともなっている。その古代の風景、古代の人が何を見たかという視点がことばや、 説話から見えてくるのである。
 しかもそれはタイムマシンにのって時代を遡ることでなく、今残っている風景や、こ とばの中に見いだすことができるものとしてあるのだ。その風景が見えてきたとき、初 めて私たちは人間のリアリティーみたいなものを感じるのである。
 “DNAの冒険”と古代の世界とはかけ離れているように見えるかもしれないがそう ではない!!
 私たちが古代の世界に見つけてきたのは、現代人に比べて知識が劣って単純で素朴な 人間ではない。自然の営みの中に変わらない法則性を見いだし、それを受け入れ、生き 生きと生きている人間、現代の私たちにも理解でき共感できる人間の姿である。 その姿を見いだすことによって逆に現代の私たちの姿がはっきりと写し出されてくるの だ。

◆4.1.2 音声フィールド

7年前、トラカレで日本語5母音の中に美しい秩序が発見された。それは成人50人分の 音声によって実現されていた。ところが、そんな美しい秩序を平均値としてつくりあげ ている個人ひとりひとりの5母音は、平均の美しい四角形とは程遠く、ひどい偏りを持 っているのだった。しかもそのばらつきが美しい平均値のまわりにただランダムにばら ついているのではなく、ある意味を持った形で現われてきたのだ。あたかもひとりひと りの5母音が自分の位置(偏り具合)を知っているかのようにだ。
 昨年トラカレでは、トラカレワークショップをつくっていくときに、ひとりひとりの 話したいことから全体をつくりあげ、と同時にそれぞれの話がそれぞれ全体の中での意 味をはっきりとさせていく、ということを何度となく繰り返した。
 それはまさに生物において、みずからの役割を徐々に見つけながら、1つの細胞から いくつもの細胞に分裂していき、多種多様ないくつもの細胞が、あるひとつの全体とし てその生物を成り立たせているということに重なってきた。
 自分達がトラカレワークショップをつくりあげていくときの体験が、音声に見られる 数値の分布に重なって見えてきたとき、本当に嬉しい感じがしたものだ。それ以来、そ ういった視点で音声のことも見ていけるようになった。以下、箇条書きで大きな項目を 挙げておこう。

☆母音

上に書いた日本語五母音に見られる秩序とそれを実現している個人のばらつきについて 、引き続きもっと突っ込んでみていきたい。母音に関しては扱っている数値(ホルマン ト)が単純なので、そこに見られる法則が、簡明な数式で表される可能性があると思っ ている。

☆子音

子音とは、時間の中でおこる現象だ。0.1秒程度の短い時間だが、そこに秩序が時間系 の中でどのように形づくられていくのかということの、普遍的な法則があるのではない か。まさに「ことばがどのように出来上がっていくのか」ということが見られるはずだ と思うのだ。ぜひやってみたい。

☆調拍

人間なら誰しもが習得可能な“人間のことば”。一見全く別のことばでも、必ずそこに は同じ“人間のことば”なんだという普遍的な秩序があるはずである。また、それと同 時に“何々語らしい”というそのことばの“らしさ”みたいなものがあるのだろう。 今のところなかなか突破口が見つからないでいるが、是非ともその普遍性と多様性に迫 っていきたいものだ。

 音声というのは、自分たちの体験を数値、または数式で表すことの出来る領域である 。5母音の時にわかったように、数値で表された秩序は誰もが納得せざるを得ないもの があり、DNAの冒険の中でも、中核をなすものである。ぜひやっていきたい。

 しかしもちろんこれらがこむづかしい訳のわからない話というのではなく、ヒッポし てる人なら誰もが本当に面白いと思い、自分の体験を思い出し、一緒に語り合えるもの であったらと思う。

 ヒッポでは今、自分の住んでる近くの人たちと普通に日常的にヒッポの話をしたり、 本当に自分の足元からヒッポをやりたいという声があがっている。同じように、トラカ レで話されるような話が、ヒッポのファミリーという場でも日常になっていったらいい 。それが“トラカレの話”ではなく、ヒッポでやろうとしていることと全く同じものと して、“自分の話”として話していけたらいい。

◆4.1.3 赤ちゃんフィールド

このフィールドは、「ことばを自然習得するとはどういうことか」というヒッポの中心 テーマについて直接話し合う場である。本物の赤ちゃんの振る舞いや、大人の中にある 赤ちゃん体験をほどきあうことは、自然とは何かをテーマとする私たちにとって、常に 立ち返るべき原点だといえる。DNAの冒険が始まることで、全体の中での赤フィーの 位置がますますくっきりとしてきたように思う。また、トラカレのフィールドの中では 、唯一、子持ちトラカレ生が継続的に関わっているフィールドでもあり、時間的に制約 の多い子持ちトラカレ生といかに「問い」を共有し、一緒にやっていけるかということ も大きなテーマのひとつである。
 4月以来、2週間に一度のペースで進められているが、毎回のフィールドがどうも単発 に終わってしまう傾向にあり、これをどう改善し、いかにして全体のストーリーを作っ ていくかが大きな課題である。赤ちゃんフィールドという名前だけに、どうしても話題 が赤ちゃん中心になりがちだが、常に「自分の体験」をほどくことを基本に、「ありご と」だけで終わってしまわないような「場」の設定が必要である。
 トラカレ生に子供ができはじめたときから、赤フィーは少しずつ昌平、航介など、赤 ちゃん個人個人の中にストーリーを見つけるフィールドになっていったように思う。個 人の中に全体があるのはいうまでもないことだが、あまりそれだけになってしまうと、 子持ちでないトラカレ生は全く入るスキが無くなってしまうし、なにかをまとめるとき にも、出てくる原稿は重なるところがいっぱい出てくる。「赤ちゃん個人」から「テー マ」ごとへの変換が必要である。「話せるとは」「わかるとは」「大波とは」など、こ れからはあらかじめテーマを決めておき、それについて皆が徹底的に討論できるような 状況を作っていきたい。今のヒッポをしっかり見据えてテーマを考え、皆でわいわいほ どき合うことができたとき、「ことばの自然習得」についての全体のストーリー、そし てDNAの冒険全体のストーリーが見えてくるのではないかと思うのである。

◆4.1.4 多言語フィールド

4月からスタートした多言語フィールドは、「どうやるか」というところから喧々囂々 ・・・。
 SADAやメタ活をやればいいという人あり、国際交流に行く人といっしょに行くつもり になるようなことをしようという人あり・・・。いざ誰かが話をするということになっ ても、話し手も聞き手もぎこちなく・・・。一体どうすればみんなが話せる、話したい と思う場になるのかがわからぬまま進んできた。どう考えてもやることは「自分たちの ことばの体験をほどいて、“ことばが話せる”ということをみつけていく」ということ だ。
 しかし、「話せない!」「話したくない!」「話すことがない!」という三重苦状態 から、今、少しずつ体験をほどこうとする人が出はじめた。さらに「ほどきたいが、ど うやって話したらよいかわからない」という発言も出てくるようになった。話し方(方 法でなく)自体をみんなの中で、みんなで見つけていくのかもしれない。
自分の体験の中のストーリーがきっと1人1人みつかるし、それを出しあえばきっとみ んなの新しいことばが生まれる。
 「ほどきたい」という想いがあつまれば「場」ができ、「ことば」が生まれる。(「 こと場」と呼べるかもしれない)
 赤ちゃんフィールドと並んで「DNAの冒険」の要となるはずの多言語フィールド。 「どう話すか」「何をみるか」という視点を育てあっていく場かもしれない。
そういう環境になっていく時、きっとトラカレ生、皆の口からいろいろなことばがあふ れてくると思う。いろいろなテーマを設定したり、誰かの体験から考えてみたりしなが ら、一歩一歩進めていきたい。

◆4.1.5 DNAフィールド

今トラカレでは、みんなで『細胞の分子生物学』(電話帳に匹敵する分厚い本で、細胞 を生命の基本単位として単細胞から多細胞生物に到るまでの幅広い内容が書いてある本 )を買って輪読したりしている。はじめのうち大半のトラカレ生にとって『DNAの冒 険』というタイトルには「“DNA”と言うくらいだからDNAのことが書いてなけれ ばいけない」という思いが強くあって、こんなに広大な「分子生物学」の知識にはたし て自分たちが向かって行けるのだろうかという不安が高まっていた。(昨年の紀要『ト ラカレ'93』も最初は『DNAの冒険』にしようという話だったのだが、「DNAのこ とが書いてないのに『DNAの冒険』なんて名前を付けるのは詐欺だ」ということで、 結局『トラカレ'93』という名前に落ち着いたのだった。)
 そうして、トラカレで『DNAの冒険』のことを散々話す中で“いったいどんな本に なるんだろう?”という話になり、それがいつの間にか“どうして『DNAの冒険』を するんだっけ?”になっていったのだ。
 ことばとしては「面白そうだから」とか「知識としてDNAのことをわかりたいので はなくて、自分たちのことばの体験をもっとはっきり話せることばを見つけたいから」 と、まだとても漠然としたことしか出てこない。しかしこれまでのトラカレの10年を 通して見つけ、積み上げてきた“ことばを自然科学する”ということ、特に昨年トラカ レが体験した“多様な個人があつまって創られるひとつの全体−場−”と、“何兆個も の多種多様な役割を持った細胞があつまってひとつの全体を創りだしている生きている という状態−場−”が、自然の現象としてとても密接な関係をもっているように思え、 『DNAの冒険』を創っていくこと自体が、もっと自分たちのことばの体験をはっきり したことばで見つけられる場になると思えたからだった。
 秋から実際にDNAの内容に踏み込んで行くのだが、まずその題材には『細胞の分子 生物学』の第3部「単細胞から多細胞生物へ」が決まっている。この第3部では一つの 卵から沢山の細胞に分裂して、それぞれの細胞が自分の位置を見つけていく過程『発生 』や、『細胞の分化と組織の維持』『免疫系』『神経系』など生物の全体がどう調和し て形作られているかを今わかっている事実に基づいて書いてある。この第3部をグルー プに分け、トラカレ生一人一人が自分のやりたいグループに入って、これから3月まで その場を創って行こうと思う。

◆4.1.6 ヒッポレターシステム

トラカレが発足当時から取り組んできたものの一つに、ヒッポレターシステムがある。 もとはと言えば、ことばが話せるようになる時に自然さがあるのと同様、発明品である 文字においても、それが読めるようになるという時には、自然の中で一貫した「人間の ことば」というものとしてある。その人間の自然さに合った表記法を探ってくるものと して始まった。
 今までも、トラカレの中でレターシステム変換ソフトなどをプロジェクトで作ったり してきた。しかし、それが外との具体的関わりをが少なかったため広がりをもたなかっ た。
 そこでトラカレの中から、多言語活動をしているヒッポの中での多言語の文字として 、多言語活動の実践の場を通して、具体的に展開していく部署としてHLSが発足した。 今のところ、日常活動においての文字というところまでは、まだ踏み込めていないが、 国際交流という場をを通して広がりつつある。
 今までの交流の中でも、トラカレで制作した「漢字で遊ぼう」(特にカルタ) 等を通して、確かな手応えがある。
 そうしたグッズ、ソフトウェア等を、国際交流という実践の場に確実につながってい くものとして、トラカレの中で制作していきたい。そこから、ヒッポ一般の会員を通し て、世界に広がっていくと思う。
 また、同時にあるホストとゲストの中だけでいいやりとりをしていても、その後ろに ある組織との間での広がりを持たないと力にならない。
 今までの交流の中で、メキシコの日墨学院、ロシアの第51小学校、アメリカのウイス コンシン州の高校など具体的に核になって展開できそうな団体も見えてきた。そうした 交流を国際交流部と協力して作る中に、トラカレ生も中心的に参加していくこともやっ ていきたい。
 こうした実践を通して、「文字が読めるようになる」という時においての自然さをテ ーマとする、トラカレでの文字の研究を具体化していきたい。
 文字が情報を蓄積し、時間を越えて伝えられるという特徴は、DNAの主要な役割( 蛋白合成と複製)とまさに重なってくる。また人間が時間と空間の統合として、世界を 認識する存在であるなら、音声に加えて文字の習得がなされたときに、また新たな人間 のことが見えてくることを期待したい。文字を科学すること、すなわち「レターシステ ム」というものを内側の系から実現していくことが、まさに「DNAの冒険」なのであ る。
なお、HLSにはトラカレの研究成果を具体化させ、外に出していくという側面も担う。 来年の春『フーリエの冒険』が、秋には『量子力学の冒険』の出版が決まっている。こ れは単なるよくできた専門書であるという以上に、ヒッポの中でできたものが、外と接 点を持ち、海外でヒッポを創っていくという具体的な足掛りとしていくものだ。
 また、海外にヒッポができるということは、日常的にいろんな国とヒッポ、トラカレ がつながる場ができるということで、そこでの文字のやりとりは、自ずとヒッポレター システムでなされるということで、レターシステムもより生き生きと成立していくこと に違いないだろう。

◆4.1.7 シニアフェロウとのかかわり

DNAの冒険を進めていく上で、忘れてならないのがS.F.との関わりである。先日 、清水S.F.が書かれた「情報を捉えなおす」という小文を読んだ。そこには、方法 論としての迷いはあるものの、「内側から見る」ということや「場」ということについ て書かれてあり、目指そうとしている方向は、ヒッポやトラカレと同じであることが、 強く感じられた。
 中村桂子S.F.のいわれる「生命誌」という考え方も、これまでの生命科学(分子 生物学)に加えて、HISTORYという概念を合わせて考えたいということで、部分 としての遺伝子ではなく、全体としてのゲノムということをテーマにする。そして、普 遍性と多様性や部分と全体ということが繰り返し問題となる。これも私たちと重なる方 向であると思う。
つまり、清水S.F.が「場」をテーマとし、中村S.F.が「ゲノム」をテーマと し、私たちが「ことば」をテーマにする違いこそあれ、S.F.の方が目指そうとして いる方向と、ヒッポやトラカレは大きく見れば同じ方向を向いている。(もともとそう であるからこそ、S.F.であるわけで、当たり前と言えば当たり前であるが)とすれ ば、いちばんよい聞き手が私たちの身近にいることになる。S.F.に私たちのやって いるDNAの冒険を聞いていただく中で、私たちの進んでいる方向が、また別の観点か ら確認出来るのだと思う。これまでの、S.F.からの講義をトラカレ生が聞くという 流れに加え、トラカレ生からS.F.にプレゼンテーションをするという往復の流れが 加わることが、DNAの冒険には望ましいと思う。そもそも、私たちとS.F.との関 わりは、講義に代表されるようなS.F.からの一方的な流れのみであっては、その関 わりが続くはずもない。一流のS.F.の方々が、本当におもしろいと思ってもらえる ものを、こちら側も提出することができてはじめて関わりが継続されるのである。本質 的な問いを共有することで、私たちはS.F.の方々と一緒に新しいことばを見つけた いと思っている。

もちろん、同じ方向を向いているS.F.とトラカレの間に直接橋がかけられること も考えられてよい。これまでは、なかなか実現が難しかったが、先日、清水S.F.か ら、「場の中でどのようにことばが生まれてくるのか」というテーマで共同研究してみ ないかという提案がなされた。これは、清水S.F.とヒッポの活動がダイレクトに結 びつくテーマである。ファミリー活動の延長上に清水S.F.がつながることになる。 トラカレが単独にS.F.と付き合うのではなく、トラカレとヒッポのファミリーが一 緒になった大自然科学者集団として、S.F.と付き合っていければすばらしいことで あると思う。そしてその際、心しておきたいのは、私たちが「多言語環境においてこと ばを自然習得する」という所に立って、新しいことばを見つけようする点においてのみ 、S.F.の方々と対等に自然科学者としてつき合えるということである。安易にS. F.に対して情報だけを求めようとすることは、慎まねばならないと思う。この機会が 有効に生かされるよう大切にしたい。
 また、清水S.F.は、「私たち(清水S.F.)の後ろにある人やネットワーク( 学会等)とも、トラカレが付き合えるようになるとおもしろいと思う」とおっしゃって 下さった。ぜひそういう方向へも発展していけるようでありたいと思う。

 

 S.F.と接するのは少ない時間ながら、私たちにとって素晴らしい鏡であることは 間違いない。少ない機会を活かして、私たちの方向を確認しながらDNAの冒険を進め て行きたいと思う。

4.2 地域、ファミリーとの関わり

トラカレの大きなテーマの一つとして、自分達のやっていることをいかに「外」に開い ていくかということがある。本の出版や強力な自然科学者に話しにいくなど、外に開く 手段はいろいろあるが、それら中でまず考えなければならないのが現場(ファミリー) である。現場はトラカレにとって最も身近な「外」の一つだ。トラカレでの発見がいく らすばらしくても、それがヒッポのメンバー、フェロウに通じないのでは意味がない。 ヒッポの中心的テーマにいかに鋭く切り込み、そしてメンバーとどう共有できるかが重 要な課題である。
 トラカレアシスタントが、各地域に配属になりコーディネータと一緒にフェロウミー ティングや合宿など、現場に出ていく機会が多くなった。今までほとんど地域などとの 関わりがなかったトラカレにとって、このことはとてもいい機会であり、学ぶことも多 かった。しかし、もう一つ「トラカレ全体」としての関わりになっていないのが現状で ある。トラカレワークショップがある意味ではトラカレ全体としての現場との関わりに なるのだが、それでも対象が不特定多数なので、話を聞きに来てくれた人達みんなと一 緒に作っているという感じでもない。どうすればメンバーも含めたところで、一緒に作 っていくことができるのだろうか。DNAの冒険では「一緒に作っていく」ということ 自体が、見たいことの大きなひとつでもあるので、このことには真剣に取り組みたい。
 「一緒に作っていく」ためには、不特定多数を狙うよりもっと限定された人達と継続 して作っていくことを考えるべきである。限定された人達というと、まず思いつくのは やはり「自分のファミリー(地域)」のメンバーである。DNAの冒険は、本質的には 「ことばが自然に話せるようになる」とはどういうことかを探っていくことにほかなら ない。それを内側から見つけたいと思ったときに、もっとも重要になるのが「自分の体 験」をほどくということである。このことは今のトラカレの中でもっとも足りない(不 得手)な所でもあり、今後避けては通れない部分でもある。
 自分のことばの体験をほどく時、そのよりどころがどこにあるかといわれれば、それ はまちがいなく自分を取り巻く環境、即ち自分のファミリー(地域)の中にあると答え るだろう。自分を語るということは自分のファミリーを語るということなのだ。だった ら、この際トラカレ生全員が「自分のファミリー」をテーマにして、ファミリーのメン バーと一緒にこの冒険を作っていけるような仕組みを考えたらどうだろうか。これには 是非とも本部コーディネーターにも関わってもらいたい。もちろん「自分のファミリー 」ということをテーマにしてである。子ファミリーを産み出すということや、新しい会 員が入ってくるということなども含めて、ヒッポに携わる職員全員が自分を取り巻く「 場(ファミリー)」について語りはじめたとき、なにか新しいことが見えてくる予感が してならない。

◆4.2.1 トラカレワークショップ

トラカレが表に向かう場として10月から1月にかけて月に1回夕方(6:30pm〜)の時 間をつかって“ちびトラカレワークショップ”(以後ちびトラ)を設定したい。この“ ちびトラ”はDNAフィールドのグループを単位としてやっていきたいのだが、今まで の『フーリエの冒険』や『量子力学の冒険』の時のように1回に1グループずつの発表 という形でなくて、毎回のちびトラに全部のグループが参加して会を重ねるごとに段々 切れ込んでいくような場(トランスナショナルエディション方式)にしたいと思う。そ れは、これから創ろうとしている『DNAの冒険』が、一つずつ積み重ねられてできて いくものではなく、それぞれのグループが密接に関係しながら全体としてできて行った ときにはじめて豊かな場になって行くと思うからだ。そしてそのこと自体を生物はやっ ているのである。
 参加してくれるメンバーの側にも毎回不特定多数の人に向けてプレゼンテーションを 聞いてもらうのではなく、申し込んでもらうなどして顔の見える人たちに継続的に参加 してもらいたいと考えている。細かい分子生物学の知識を学ぶ為ではない。各グループ で一緒に場を創り、ことばを見つけながら、自分のファミリー作りやことばの体験を引 き出し合う場を内側から創る仲間として参加してもらうことで「ことばの自然習得の道 筋」にせまっていきたい。

 ヒッポ全体、ファミリーの人そして本部の人たちにトラカレでやっていることを開い ていく場としてトラカレW/Sが設定されていくことはトラカレにとって大変意義があ ることだ。三月に向かってちびトラカレをやりながら月一回のペースででかトラカレを やっていきたい。
 でかトラカレでは、基本的に聞いてもらうプレゼンテーションのスタイルをとってい くが、ちびトラカレで見えてきたことを含みながらトラカレでやっているさまざまなフ ィールドの話をベースにDNAの冒険のテーマからはずれることなく九月から三月に向 かって一連のものとして続けていきたいと思う。

『細胞の分子生物学』
第3部 「単細胞から多細胞生物へ」グループ分け

A15 生殖細胞と受精
16 発生の機構
ひょんくん、アラジン、ジミヘン、まりこさん、キクチ、
ヤマト、ライコ、チャック、ワカちゃん

B 17 細胞の分化と組織の維持
大ちゃん、きぬえちゃん、コマッキー、かずえさん
ペコリン、ももちゃん、中村景子

C 18 免疫系
  21 がん
まりえちゃん、やまちゃん、るみちゃん、ラウファン、
すぎまる、すぎきち、シュワちゃん、コトママ、うぬまさん
ちょパー、ひらめちゃん、ヨジくん

D 19 神経系
しげちゃん、のぶこさん、あやさん、あゆちゃん、ニン
ハッチ、けん、マサロウ、シンシア、ふるた、さんちゃん

これからの日程
9月26日でかトラ/ 10月17日ちびトラ/ 11月7日でかトラ/ 21日ちびトラ/
12月5日でかトラ/   19日ちびトラ/ 1月23日ちびトラ/ 30日でかトラ

◆4.2.1 地域へ出かけて行くこと

トラカレのアシスタが地域に配属になり、ヒッポミーティングや部全フィーに出かけて 行くようになった。そのことは地域にとってもアシスタにとってもとても良いことであ る。しかし、各地域にアシスタ一人ということで、地域にとってはトラカレの○○さん という付き合いで、トラカレ全体を伝えるのは難しかった気がする。一方、名古屋トラ カレワークショップ、オープントラカレなどでは、複数のトラカレ生がトラカレ全体で 準備したことを話しに行き、その時にはトラカレ全体が伝わるし、名古屋側にとっても トラカレ側にとっても得ることが多かった。
 DNAの冒険をヒッポの人たちと一緒にやっていくにあたって、東日本の地域にもト ラカレ生が出かけて行くということをやってみてはどうかという意見が出ている。名古 屋は数名しか行けないけれど、東日本でやったらもっと大勢のトラカレ生が参加できる という利点があるし、迎える側も地域で準備ができるのではないかと思う。
 例えば、こういう企画をぜひ北関東地域でやってみたいと思う。チビを連れているお 母さんにとっては渋谷は近くではないし、ファミリー数は多いのにトラカレ生が一人も いない地域だ。9月の初めに地域の合宿に参加した時の、私を含めた多くの人の感想が 「たくさんの人たちといっぱい話せて良かった」とうものだった。このことは合宿の魅 力の一つなのだが、来年の合宿では“みんなでつくった合宿”という実感を持ちたいと 思った。トラカレはみんなでつくるということをとても大切にしている。トラカレワー クショップは毎回みんなでつくり上げてきたものだ。いきなり来年の合宿をみんなでつ くることは難しいので、今後の地域ワークショップをまずみんなでつくって行きたいと 思っている。どんな形になるかわからないが、ぜひそこにトラカレ生が行く場を設定し てみたい。そこではトラカレ生が一方的にプレゼンテーションするというのではなく、 集まったメンバーたちと一緒に話ができるものが望ましい。ファミリーみんなでことば を自然習得する環境をつくることが、DNAの冒険なのだということをトラカレ生が出 かけて行くことで伝えられたらいいなと思う。

◆4.2.3 トラカレの情報を外に出す

ヒッポにはことばを習得するためのメソッドやマニュアルはない。技術としてことばが できることだけを目的にするならば、他の語学教室でも事足りる。ヒッポでは「ことば とは何だろう」「ことばをしゃべる人間とは何だろう」と問うこと、技術より本質を探 ることが重要であり、そこに“ことばを自然科学する”というテーマを掲げたトラカレ の存在価値もある。
 しかし、このようなテーマをフェロウ、メンバーとどれだけ共有できているのかと考 えると、まだまだすることが多い。トラカレワークショップという“晴れ姿”はよく知 られているが、あまりトラカレに縁のない人達にとってはなかなか遠い存在ではないだ ろうか。トラカレの日常のフィールド活動やトラカレに集まってくる情報を外に出し、 なるべく多くの人達と直接的、間接的に話し合える材料を揃えていきたい。また、ヒッ ポの中だけでなく、ヒッポの外に向けての発信も考えたい。
 手始めに、月に一回ぐらいのペースでトラカレの動きを伝えるカルタを発行すること が考えられる。これは今までにも何回か試みられたが、余り長くは続かなかった。個人 任せで自然消滅してしまったり、定期的にみんなで原稿を書こうとして結局原稿が集ま らなかったりしたからだ。カルタを定期的、継続的に出すためには長続きする体勢、長 続きする内容を考える必要がある。ミニコミ的な性格のものを、数人の人が核となって 企画・制作していくのが適当だろう。できたものはFAX Boxに登録する、トラカレ生候 補に送るなどの利用が考えられる。

5. まとめ
一年後の未来へ

トラカレでよく言われることばがある。

“問題の立て方が正しければ答の80%以上はでたも同然だ”

 私たちにとってはどこに問題を見つけてどう設定するかが1番重要なことである。そ の意味で今回のテーマは今までの流れの延長として、そして新しい未来に向かって、正 しく設定されたように思える。
 そしてそのことは、来年の3月、本(紀要)というものとして具体的な形に結実され ていくことが、トラカレにとっての問われる答である。これから行われていくこと、見 つけていくことが文字として表現されることの中に、トラカレの”ことばと人間を自然 科学する”真の意義が発揮されうるのだ。
 しかし、それはトラカレがトラカレだけで、できることではない。ヒッポという全体 、それは漠然としてある全体ではない、一人一人の人と、そして一番身近な人たちと作 っていく場の中で具体的に実現されていくことである。
 今回、“DNAの冒険”が始まる。でかトラW/S第1回目準備の時期にこのレポー ト書きが重なったことは私たちにとって大変よい結果になった。。(もちろん忙しくも あったが)
 アシスタ全員がこのレポート書きの話を聞いたとき誰もが「トラカレW/Sみたいに できたらいいね」と言った。そして何とその通りにできたのである。
 みんなで話し合い書きたいことを見つけ持ち寄った原稿をみてまた話すという中で全 体の原稿ができてきた。最後の構成ではひとりの原稿の途中に他の人の原稿がすっぽり と入って、それがそのまま1この文章になるような具合にみんなの原稿がひとつの全体 としてつながったのである。みんなの中で原稿の全体像が創り上げられて行ったという ことだ。DNAの冒険はもう始まっていたのである。
 DNAの冒険に踏みだしたトラカレはすでに混沌の中にいるが、今混沌の中にいるこ とを恐れたくはない。この混沌の中から新しい生命、新しいトラカレが生まれるのであ る。十二年目のトラカレが沢山の人たちと始まることによって新しい場が形成されるの だ。
トラカレの全体、そして一人一人が今自分たちの中にあることばに対するスタンスが問 われている。
 そのことに真正面に向き合いたいと思うのだ。