BEATMAKS (vol.7/JUL. 20. 1984) p16-p17
山善の進撃
復活から10ケ月。この短期間に彼ほど話題がつきなかった人物(ロックンローラー)は他にいない。


輝き続けるエクトプラズマ


昨年10月発行の第3号「山善の逆襲」以来、ビートマックスでは山部善次郎またはその周辺事情について折あるごとに細かくレポートしてきた。 熱心な読者からは「山善のことばっかりヤケに詳しい」「かたよりが見られるのでは」との投書もいただいた。
 しかしビートマックスは山善にかかわらずこれまで決して意図的にかたよった偏集(編集)などしたことはないし、創刊号でも述べた方針、 「これはオモシロイと感じさせてくれるものなら、何でも載せる」という意志は全く変わっていない。
 それでも同じような投書をいただくとすれば、それは編集スタッフにとって山部善次郎が「オモシロすぎる」存在になっている、ということだと思う。
 事実、昨年8月の「復活」以来、山部善次郎は常に話題を事欠かなかった。
 鮎川誠、大江慎也、花田裕之他多くのゲストを招いて行われた昨年11月の新宿ロフト・ライブに始まり、以後数回に渡る東京ライブは全て満員御礼。
 今年に入ってからやっとメンバーが固定したバンドは「山善&ミッドナイトスペシャル」と名づけられ、彼のバンドならではの豪華な顔ぶれが揃ったことは先刻御承知の通り。
 そして6・21のシングル「キャデラック」発売。テープやソノシート、またレコードにしても、同じような自主制作モノは他にいくらでも発売されている。だけどこのレコードに関しては 録音メンバーの豪華さ、そのプロモート方法、そして発売前から100枚単位の注文が全国の自主制作専門店などから殺到している…といった点で、ただのインディーズとしてはかたづけられないところがる。

 しかしここで言いたいのは、そんな事件ひとつひとつの成り行き、経過なんかじゃない。
 問題は山部善次郎のロックンロールに対する、おそろしいとも言えるほどの執念なのだ。
 1971年「田舎者」結成に始まり、「日本初のパンクバンド」である「ドリル」に至るまで数々のバンドを経験した彼は、一時音楽活動から全く手を引いてしまう。 1980年台を迎える直前のこと。
 サンハウス、モッズ、ロッカーズと並び大穴、あるいはダークホース的な存在として博多を荒し回っていた彼が、なぜ突然ステージから 消えてしまっただろう?
 音楽活動をやっていくうえで直面する様々な問題−−人間関係のしがらみ、彼をとりまく人々の欲望の交錯…etc−−が、殺伐としている反面、非常に繊細な彼を押しつぶそうとした。 これが大きな原因だった。
「ドリル」解散後、彼はギターの弾き語り、また他のバンドへのゲスト参加など、つまりソロで活動をしていた時期がある。
 今でもたまにステージで歌う自作のバラード。「キャデラック」に代表されるバリバリのロックンロールとは余りにもかけ離れた世界のメロディアスな曲。 その多くはこのソロ活動のときに生まれたものだという。
 様々な問題、重圧が山善から自由奔放なロックンロールを奪った−−とは考えすぎだろうか?
 狂気めいたファンを避けるため厳重な警備陣に囲まれ、プライベートな生活・心休まる時間をなくし、精神的に疲れ果てたビートルズが、美しい、しかし精気のないバラードを作り始めたように。
 純粋に心からロックンロールを愛し、ロックンロールを歌うことで自分を表現しようとした山善にとって、そんなくだらなくもヘヴィな問題の数々はきっと耐えられないものだったに違いない。
 約4年もの間、彼は人前で歌うことをやめてしまう。
 だがやはり彼にはロックンロールを捨て去ることはできなかった。活 動停止中彼はネクタイを締め家業である紙問屋の一営業マンになっていた。得意先からも評判の良い優良社員。
 しかし、彼はいつも感じていた。「絶対何か違う。何か違う…。」自己表現することを奪い去られた人間の焦燥感。
 こう考え出すと、いても立ってもいられなくなった。山部善次郎はもう一度ロックンロールバンドで歌うことに決めた。 その後のことは「山善の逆襲」を読んでいただければ、コレ幸いである。

 「復活」に結びつく直接の動機が何だったは定かではない。だけどそれが何であろうと、結局は彼の「執念」がそうさせたのだろう。 それはもう「本能」とも言えるかも知れない。
 山善は自分の音楽性云々について余り多くを語らない。彼の場合、それでいいんだと思う。「何でメシを食うんだい?」と聞かれれば「ハラが減ったから」というほかに どんな答え方ができる? なにしろ歌うってことは彼の「本能」なんだから。


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