市章の意味

 竹原の地名に由来した竹を題材とし,竹の輪は市民の和を表わし,三方に広がる緑の 笹の葉は,竹原市の平和で豊かな繁栄を象徴したものです。
(昭和38年(1963)9月制定)


安芸の小京都 たけはら


町並み保存地区

 上市,下市あたりの町並みを歩けば,落ち着いた静けさと,時代を超えた雰囲気に思 わず心もなごみます。棒瓦の屋根,塗りごめ壁,れんじ格子,製塩を核として花開いた 町人文化の残り香が,江戸時代そのままの家並の中に静かに息吹いています。
 頼山陽を頂点として多くの町人学者を輩出した文教の地竹原は,遠く二千年の昔から 繁栄していたことが,賀茂川上流の横大道や田万里鏡田古墳群から伺われます。都宇駅 がおかれ,平安時代京都下賀茂神社の荘園となり,中世竹原小早川氏により治められ, 江戸時代には製塩地として飛躍的に発展し,その経済力によって作られた町並みは,その 文化と共に竹原の町づくりの核として静かに佇んでいます。


文化と竹の公園都市 竹原


竹並木

 まちの中心部を流れる賀茂川の流域は,縄文時代後期以降の遺跡が多く残されており ,早くから人々の生活が営まれていたことがわかります。
 律令制の時代,市内北部の「都宇」に駅が置かれ,平安期には京都下賀茂神社の荘園 となり「都宇・竹原荘」と呼ばれていました。
 鎌倉時代には竹原小早川家の隆盛とともに発展しました。現在の竹原市全域は小早川 家の領域に属します。
 江戸時代に入ると,賀茂川下流域に入浜式塩田が開かれ,竹原は急速に発展しました 。瀬戸内海屈指の製塩地として繁栄した竹原で活躍した商人は,一方でその豊かな経済 的基盤の上に注目すべき”竹原文化”を開花させ,頼山陽など頼一門を筆頭とする多く の文化人を輩出しました。国の重要伝統的建造物群保存地区(町並み保存地区)に指定 されている竹原町上市,下市地区を中心とする町並みは,その名残りをとどめ,古都の 雰囲気を漂わせています。
 昭和33年に,竹原町と近隣の10町村との合併を経て今の市制を敷いた竹原市は, 平成元年にまちづくりのスローガンを「海と空のインタークロスシティ」(文化と竹 の公園都市)とし,まちづくりのコンセプトに竹を掲げ,竹をテーマにした総合運動公 園「バンブー・ジョイ・ハイランド」や,街路樹として竹を植栽し,総延長2,500 mの竹並木を整備するなど,さまざまな分野で「竹」を最大限に活用したまちづくりを すすめ,小さくても日本一魅力ある竹原市の創出に力を入れています。



大久野島毒ガス資料館

 竹原市の沖合に浮かぶ大久野島は,昭和4年に日本陸軍の毒ガス工場が設置され,戦 時中は毒ガスが製造され,秘密を守るために地図から消された島でもありました。
 現在は,島全体が国民休暇村として開発され,往時をしのばせるものは,わずかに砲 台跡,発電場,毒ガス貯蔵庫等数少なくなっていますが,この島で毒ガスが製造された 過程で多くの犠牲者が出たことなどをしめす当時の資料を展示した大久野島毒ガス資料 館があり,戦争の無意味さと毒ガス製造の悲惨さを訴えています。


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