日清戦争をさかいに日本の産業は大きく伸びていきます。都市には工場が建ち、人が集まり、取引も盛んになります。電話線架設事業が追いつかないほど電話需要は増え続け、とうとう新橋〜浅草間を走る鉄道馬車の車内に、電話売買広告が出る始末。政府は、清国からの賠償金を、官営事業の振興のひとつ第1次電話拡張工事にあてて電話ブームに答えようとしました。29年には2800人にすぎなかった全国の加入者数が37年には35000人にのぼっていたのです。