5.人ニシテ信ナクンバ
価値とは、「信」である。
「信」仰もすなわち、価値判断である。
というか、恐らく宗教こそ最強の価値判断である。
松本某の垢汁を、金を払ってすする人間が居ることを考えてみれば、、
信仰というものの偉大さが理解できる。

ヨーロッパ諸国や、イスラム圏では、信仰の対象は、ただ一つである。
「神」は一人しかいない。
日本では、神はたくさんいる。
と、まず前振りしておいて、、、

かつての日本人は、金を卑しいものと考えていた。
正確に言うと、多くの日本人は、金を卑しいものと考えてきた。
それは別に彼らが立派だったからではない。
彼らが、金をあまり信用していなかっただけなのである。
彼らは金よりも、米そのものを信用していたのである。

大体日本は、貨幣経済の発達が遅れた。
律令制のころ、いくつか貨幣を発行していたが、
すぐ立ち消えになった。
その後は輸入銭にたより、
為政者がまともな通貨政策をし出すのは、
太閤秀吉以降である。

といってもそれからすぐに貨幣経済になるわけではない。
侍たちの給料は、何石とり、という風に、米の量で換算された。
要するに、君主も、侍も、金を信用していないのである。

たとえば飢饉になったとき、金を幾らもっていても、
どうしようもない。
金は、煮ても焼いても、茹でても干しても、
食べられないのである。
これはそんなに昔の話ではない。
終戦直後、そうだったではないか。

その点米ならばいい。
そういうわけで、私もいざというときには、金より米を信用するし、
昔の人も、そうだった。
米でなくても、麦でもいいし、
牛や馬でもいい。
実際にある程度有用なものこそ、
信用がおける。

ところが江戸時代も中頃から、
日本国内で、ものの流通が盛んになった。
ある地方で米がなくても、
船で運べば事足りる。
そして日本中で米がまったく取れなくなるということは、
考えられない。

そうなると米よりも、かさばらず、腐らず、貸し借りだってできてしまうお金の方が、
はるかに便利である。
そういうわけで人々は、お金を信用するようになった。
言い方を変えると、人々が信用しているのは、
お金それ自体ではなく、商品を流通させている、社会なのである。
社会を信用しているから、お金を信用するのである。

事態を社会の側から見ていよう。
社会はんとしては、構成員が、仲良く助け合っていくことが、
望ましいわけである。
構成員にはいろんなやつがいる。
米がほしいもの、服がほしいもの、馬がほしいもの、
書物がほしいもの、色々いる。
彼らの仲を上手に取り持つものがあれば、
彼らは助け合って、お互いの優れたところで
お互いのかけてるところを補い、
仲良くやっていけるわけである。

仲を取り持つものとして、一つには言葉がある。
言葉があるから人間は、意志疎通ができる。
意志疎通ができるから、集団が形成できる。
集団が形成できると、スケールメリットが発生する。
それで集団の構成員が、いい思いができる。

ところが言葉だけではなく、
より強力な意志疎通がないもんかという気に、
社会はんはなったのである。
そこでできたのが、数字である。
数字は、物事を厳密に表してくれる。

最初は数字は、ものに引っ付いていた。
「米三合は、米一合の、三倍の価値じゃ」
という風に。

数字はあくまでも、ものの属性を表す、
形容詞であった。

それが次第に自立心を持ちだし、
数字それ自体が、何がしかの意味を持ち出す。

「三百万円は、百万円の、三倍じゃ」

ここでの百万円は、現金であろうと、金貨であろうと、
預金であろうと、手形であろうと、
百万は、百万である。

構成員がこういうものを信用してくれると、
社会はんとしては助かる。
「あの人には義理がある」
という程度の関係だと、なんだか古風で、
強い結びつきのような気がするが、
そんなものは気がするだけで、
実のところかなりいいかげんな人間関係である。
どの程度のことをすれば恩義に報いたことになるのかさっぱりわからないから、
恐ろしくてそんな関係を作る気にならない。
そんな関係を作る気にならないと、
人々の結びつきが強くならずに、
社会はんとしては、困るのである。

金銭の貸借関係だとその点いい。
なんぼ借りたか、なんぼ返せばいいか一目瞭然、
きちんと清算すれば、その関係はそれっきり。
気楽に、人々は「結びつき」を持てるのである。

そおいう社会はんの思惑もあって、
今日、日本人は金を信じているのである。
しかしながら依然として、そんなには信じていない。
バブル時代と地価高騰を思い出してほしい。
金が余ると、すべて土地に吸収されてしまう。

土地は何しろ農作物を作れるから。
ということで話ははじめに戻って、
日本は多神教の国である。
一神教の国々の神は、
多分に抽象的で、絶対的である。
してがってそこにすむ人々は、
抽象的なものを信ずる能力が、我々よりも高い。

我々は多神教の民であるから、
高度に抽象的で、高度に普遍的なものは、
かえっていかがわしく感じてしまう。

別な言葉で言い換えれば、
日本人は、社会というものをそれほど信用していないのである。
そおいえば、ある学者が、
「日本には、社会はなかった。世間があっただけである」
といったが、それはまったくそのとおり。

前にかいたとうり、
価値というのは、社会が作るものである。
社会がない国には、価値もない。
結論として、そうなる。

確固とした価値がないから、
茶碗ごときに熱狂する。
今日のブランド信仰も、その延長線場にある。
大枚はたいて買ったバッグや服の換金性など、
気にしていない。
(バイオリンはちがいます。あれはいくら使っても、
壊さない限り、値が下がらない。
なぜならば、ストラディバリはもう死んじゃって、新しい楽器が作れないから。)

ブランドに熱狂する人々は、
だから、
価値を追い求めているのではない。
あの程度の欲望は、価値の追求などと呼ぶに値しない。
単に、イメージに引き付けられている、
小さな詩人と呼ぶべきである。

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